第一章 蓄積ダメージ

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 喫煙所の扉を開くと、ひと際淀んだ気を放つ姿を確認し千景は思わず足を踏み入れる事を躊躇った。しかしすぐにそれが自分の見知った存在であると分かると彼に蓄積されたダメージの理由が分かるからこそ逃げずに声を掛けようと考える事が出来た。 「南、大丈夫か?」 「佐野」  千景はつい最近三年程住んでいた家から引っ越したばかりであり、手続き等で慌ただしく過ごしていたが、それでも社内の空気が見えない訳でも無かった。千景が声を掛けるとげんなりとした表情を浮かべた喬久が顔を上げ、千景も思わずそれに釣られて眉を落とす。 「山城さんの声、こっちまで聞こえてきてた」  誰であっても山城の怒声を直接浴びせられれば生気を抜かれる。気の弱い者ほどその影響は大きいが、千景が知る限り喬久はそれ程メンタルが弱い人間でも無かった。何事にも動じないという印象が強く、社内では数少ない山城に向かって食って掛かる稀有な存在だった。こと今の喬久の現状から考えるのならば、山城の恫喝は喬久自身に対するものではなく、喬久が主任として庇おうとする同じ部署内の誰かなのだろうと考えると同情を禁じえなかった。 「それでも前よりはずっとマシになった方でしょ」  それは喬久が山城と直接交渉をした結果だった。それは何度言い聞かせても一向に八雲の勤務態度が改善されなかった頃、当然のように山城より浴びせられる怒声から八雲だけではなく部署全員を守らなければならないと考え実行した苦肉の策だった。今後自分の部署のメンバーが何か失態を犯したならば、直接当人では無く自分に言って欲しい。千景はその喬久の考えを立派だとしか思えなかったが、その結果として喬久がこうして一番のダメージを負っているのならば、やはり本人を叱るべきではないかとも感じていた。  パワハラは確かに良い物では無いが、喬久がそうやって八雲を甘やかす事で改善が見られないのであるのならば、直接恫喝に晒される事の方が本人の為になる事もある。飴と鞭で動く人間が居るとするならば、分室に保護された人材達は間違いなく飴で、同じ手では八雲は動かない。四條が分室を作ってから業績は見るからに上がっており、四條が分室メンバーに与えた特権は上手い具合に作用していた。  喬久は今でも榊を山城から守れなかった事を後悔しており、例え自分が泥を被っても自分の部下だけは同じ目に合わせたくないという強い気持ちから決めた喬久の決意を生半可な言葉で覆す事は出来ない。千景に役職は無かったが、もし自分が喬久と同じ立場に居たならきっと同じ事をしただろうと深い溜息を紫煙と共に吐き出した千景は、今の自分に出来る事としてスーツの胸ポケットから取り出した錠剤を数個喬久へ差し出した。 「ほい」 「なに?」  千景は三年前に転職して来た人物で、転職前の職場は今とは比べ物にならない程ブラックだった。今こそ頻度は少ないが、何度も胃を傷め睡眠導入剤が無ければ眠りに就けない事も多くあった。千景が取り出したのはその名残りで、常に持ち歩いてはいるが使用期限としてはぎりぎりのものだった。 「胃薬。酒と一緒に飲むなよ。ああ後カフェインも」 「ありがと」  胃薬はその成分にもよるがアルコールやカフェインとの飲み合わせが悪いものも多くある。身を以てその効果を知っていた千景は喬久ならば心配は無いと考えながらも念の為に注意事項を伝えた。何度か仕事後飲みに行った事のある間柄の二人だったがここまで心身ともに参っている喬久を見るのは千景も初めてだった。四條の昇進に伴う山城の苛立ちは千景も感じており、だからといって喬久がその全ての責を負うのは不平等過ぎると考える千景は何か打てる策は無いかと考える。  そんな時喬久の胸ポケットで着信を告げる振動が起こり、それがメッセージであると分かった喬久は吸いかけの煙草を口に咥えたまま指先を取り出したスマートフォンの画面へ滑らせる。 「――ん?」  先程まで暗い表情を浮かべていた喬久の眉が僅かに上がった事を千景は見逃さなかった。それはきっと喬久にとって嬉しい報せであり、少しでも喬久の心がポジティブな方面へと向かうなら願ったりであるとして、千景は僅かに首を傾けながら画面に釘付け状態の喬久へからかうように声を投げ掛ける。 「なに、山城さんの異動辞令?」 「いや、そうじゃないけど。友達からメッセ」  そうだったならばどれ程良かった事か、残念ながらメッセージの内容はパワハラ上司の人事連絡では無かったが、喬久にとってはそれと同等程度の嬉しい報せであった。 「なあに楽しいお誘い?」  山城の人事連絡に触れたのは冗談ではあったが、表情に隠し切れない程の楽しそうなオーラが喬久から滲み出ている事は明らかだった。推測する限り相手は喬久にとってそれ程大切な相手であり、胃痛を忘れる程の報せであるのならば千景にとっても喜ばしい事だった。 「うん、今夜飲もうだって」  それは幼馴染みであり親友である和己からの飲み会の誘いであり、妻子ある身の和己とは中々都合の合わない事が多かったが、こうして偶に飲みへと誘ってくれる時は大抵喬久が仕事で心身共に疲れている時だった。幼稚園から大学まで共に過ごしていた所為かまるで以心伝心のように和己は喬久の意を汲み取り、喬久にとっての和己は唯一気心の知れた気の休まる相手だった。その信頼は蒼以上と言っても過言では無く、お洒落なバーではなく安居酒屋で何時間共に居たところで苦になる事は一度も無かった。 「良かったじゃん。酒飲んで嫌な事なんか忘れちゃえよ」 「そうする」  飲み過ぎない限り、酒は多幸感を煽る事もある。喬久が悪酔いする程無茶な飲み方をしているところを千景は今まで一度も見た事が無く、社内の人間相手には話し辛い事も友達相手ならば気兼ねなく話せることだろう。何にせよ喬久にもその様な相手が居た事は千景にとっては安心の出来る事だった。
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