第一章 蓄積ダメージ

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 その日は仕事を早めに切り上げ、のらりくらりと言い訳を繰り返す八雲を一蹴した後喬久は上機嫌のまま和己と待ち合わせをしている駅前の居酒屋へと赴いた。和己が今の妻と入籍したのは大学を卒業した間もなくで、その頃はまだ今程仕事も立て込んでいなかった喬久は披露宴に列席し友人代表としてのスピーチもしたものだった。今でも昨日のように思い出せるあの瞬間、考えれば人生の半分以上を和己と過ごしてきた気がする。和己が結婚をした事で会う頻度は随分減ってしまったものだが、それでもこうして定期的に会っている限り交友関係は良好なままだった。  蒼との待ち合わせとは異なり、結婚後自営業の職に就いていた和己は比較的時間の自由がきき、喬久が到着するよりも早く店で待っていた。馴染みの木扉を開け紐暖簾を潜ると騒がしさの中にも暖かな空間が広がっていた。 「喬久、こっちこっち」  喧騒の中和己の声だけがしっかりと喬久の耳へ届く。店内を見回す暇もなく声に視線を向ければ向き合った二人がけのテーブルの一方に腰を下ろし喬久へ軽く手を挙げる和己の姿が見えた。頻繁に顔を合わせているからこそ大きな変化こそ感じられないが、緩くワックスで固めた髪は漆黒の如く黒く、数ヶ月前に会った時と変わる事のない柔らかな笑みを浮かべる和己は小さなグラスに注いだビールを傍らに炙りイカを口にしていた。 「ごめん、遅くなった?」 「俺も今来たとこー」  なるべく定時で終わるように片付けたつもりの喬久だったが、就業時間を自由に決められる和己の方が早めに到着しているのは当然だった。喬久は今まで和己との待ち合わせで待たされた事が一度も無かった。脱いだ背広を椅子の背凭れに掛け、ネクタイを緩めながらメニュー表に目を通す喬久のグラスに和己はビール瓶を傾ける。 「ビールで良かった?」 「うん、良いよ」  ある程度の酒の摘みは既に和己が頼んでおり何皿かテーブルに並んでいる。勿論喬久が酒のお供として欠かせないたこわさもあった。気心が知れ過ぎていて、初めに何を飲むか、摘みは何を好むか等という事はお互いに熟知し過ぎていた。それでも到着は毎回和己の方が早いので、いつもこの様に和己が喬久の為に用意してくれている事が多かった。 「ほんっとあのヤローはっ!」  何杯目かのアルコール注文にハイボールを選んだ喬久は、まだ多くの内容量が残るジョッキを豪快に木のテーブルへと叩き付けた。幸いな事にその音は店内の喧騒に呑まれ、誰ひとり気に留める事は無く、和己自身もいつもの事であると大して気にする素振りもなく嬉しそうな笑みを浮かべたまま頬杖をついていた。  酒の肴は喬久の愚痴で、こういう場所でも作らない限り喬久は自らのストレスを吐き出す事は無い。喬久が就職をしてからもこうして何度も飲む機会は設けているが、五年前主任という立番に昇進してから喬久の愚痴は多くなってきたような気がした。家でひとり酒をしながら愚痴を吐き出すよりは聞いてくれる誰かが居るだけでもその負担度合いは大きく異なる。だからこそこうして和己は定期的に喬久を連れ出す事にしており、それで喬久がまた明日から潰れずに頑張れるのならば和己にとっては願ったりだった。 「まだ初歩的なミスするし、俺の話聞いてるのか聞いてねぇのかも分かんねぇし」 「大変だねえ中間管理職は」  喬久がテーブルを叩いた瞬間、テーブルの上から箸が転がり落ちる。和己は手を挙げて店員に新しい箸を頼みながら、最近の喬久のストレスの元凶である八雲という人物に対して余り良い印象を抱いていなかった。どうも話を聞く限り八雲は敢えて喬久に被害が及ぶような行動をしているようにしか思えない。社会人たるもの少しでも早く貢献出来るよう努めるものでは無いだろうかと考える和己だったが、勤め人である喬久の心境は喬久にしか分からないものがあるのだろうとただ愚痴を聞く事だけに徹していた。 「ぜーんぜん、まだ下っ端だよ」  主任という立場上、何人かの部下を纏める立場にいる事は間違いないが、かといって社の方針に口を出せる程の権限がある訳ではない。主任の上には本来部長という立場があるものだが、喬久の第三開発部は多少特殊で部長であった蒼の退職後、特に別部署から部長を任命された者が来る訳でも無く喬久は事実上部長職を兼任しているようなものだった。加えて蒼の退職後間もなく山城がパワハラ恫喝事件を起こし部長から主任に降格されたことで第一開発部、第三開発部は揃って部長が存在していない状態となっていた。他所から部長が来る代わりに第一と第三を纏めていたのが当時第二開発部の部長であった四條だった。その四條も分室が出来てからは分室長を兼任しており、そんな四條の補佐をしていたのが中途採用で入ってきた千景だった。 「なーにが『南くんなら上手く出来る』だよ」  千景は直属の上司である四條を慕っているようだが、喬久から見れば四條も山城とそう変わらなかった。ただ山城のようなあからさまな恫喝が無いというだけで、相手にノーと言わせないような威圧感が喬久は苦手だった。しかしそれらの全てを改めて考えてみたところ、喬久の中で意外な程素直に事実が見えてしまった事も確かだった。何故一般的には人当たりが良いとされる四條を苦手としてしまっているのか、その理由は喬久が蒼以外の人物を上司として認められないという強い拘りに起因していた。  喬久が新卒として入社してすぐに蒼が上司となった。社会人として初めての上司が蒼であり、その印象が強く焼き付いてしまったからこそ以後どのような上司であっても蒼と比べてしまっていたのだろう。その事実に気付いた時喬久は自らの浅薄さを恥じた。今部下を持つ立場になってから始めて分かる四條や山城の気持ち、だからこそ威圧や恫喝だけは部下には絶対しないと心に堅く決めていた。 「日に日に俺の胃がダメージ蓄積してってる……」  その決意すらも守れなくなる日がじきに来るのではないかと喬久は考え無意識に右手で胃を押さえていた。それを見越してか喫煙所で胃薬を渡してきた千景は喬久が考えるよりもずっと社会人としての経験値が高い。今でこそ笑い話として嘗ての勤め先の事を話したりもするが、当事者であった頃はとても笑ってやり過ごせるような事ばかりでは無かっただろう。つい最近引っ越したばかりだと聞いた事があったが、喬久が知る限りこの半年近くの千景は以前にも増して前向きになっているような気もした。 「溜め込み過ぎんなよー? ただでさえお前気ぃ遣い屋なんだから」  喬久が気を遣い過ぎる性格である事は昔からで、特に顕著だったのが高校時代に告白をしてきた女子生徒への対応だった。人生の半分以上共にしている和己から見ても喬久が誰かと付き合っていたという事実は無い。勿論和己に知らないところで誰かと付き合っていたというのならば話は別だが、隠す余裕も無い程の時間を喬久と過ごしてきていた。それでも高校生ともなれば同級生は色めき始め、和己も告白をしてきた後輩と付き合った事があったがその程度の時間しか喬久と離れた事は無かった。女が苦手という風にも見られず、特に女子に対しては優しすぎる程だった。だからこそ勘違いをしてしまう女子も出てきてしまい、そんな子に対して真摯に詫び続ける事を繰り返した喬久を悪く言う者は誰ひとりいなかった。 「そぉんな喬久クンにも可愛い彼女が出来たら癒やしてくれるのにねぇ」  喬久にだけは幸せになって欲しい、それが和己の願いだった。テーブルに突っ伏し指先で円を描く喬久の頭へ手を伸ばして撫でると、喬久は少し硬直した後視線だけを一度和己に向けた後再び眠るように目蓋を落とす。 「彼女……彼氏なら出来た」 「は? ……なんて?」  今確かに喬久の口から放たれた言葉は喧騒の中であっても和己の耳へとしっかり届いた。普段に比べてごくか細い声ではあったがはっきりと聞こえたその言葉を疑い和己は思わず聞き返す。 「いや会社の元上司なんだけどね。ストーカー避けって言うの? 相手が女だから逆に男の恋人作れば諦めてくれるだろうって。振りよ振りー」 「……それって、相手の事逆上させたりしない?」 「んー、そうなのお?」  一体何杯飲んだのか、数えてはいなかったが程よくアルコールも周り気分の良くなった喬久はゆらりと体勢を起こしながらぽかんと口を開ける和己にへらっと笑って見せる。これが喬久にとっての初めての恋人というならば和己にとっては大問題だった。和己がグラスを握る手が怒りの余り震える。いくら振りと言っていても恋人関係にあるならばそこから本当の関係に発展していく事は難しくない。だとしても何故その相手が男でなければならないのか、男に女がストーカーをしていたとしてもその対策として喬久に白羽の矢が立てられてしまったのは何故なのか。今までに誰の告白も受け入れてこなかった喬久を知っている和己からしてみれば、元上司という立場を体よく利用しているようにしか見えない。 「嫌なら、断っていいんだぞそういうの」  女子生徒にしてきたように、本当に自分が嫌であるならば例え元上司であろうが断って良いものであると和己は考えていた。しかし次の瞬間和己の耳に届いた喬久の言葉は衝撃的なものだった。 「別に、振りだし……それに、その人相手なら嫌でも無かったし……」  振りだからという言葉に誤魔化されてはいないか、考えてみれば喬久は嘘が吐けない程素直過ぎて何度も騙されていた事があった。中でも和己が一番驚いたのは中学生までサンタクロースの存在を信じていた事だろうか。頭は決して悪くないのに多少常識に欠けているところがあるので、小学生の時には知らないおじさんに付いて行ってしまわないかどきどきしたものだった。しかし思いの外喬久が困っているように見えなかった事が和己には意外だった。
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