第二章 越えかけた一線

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第二章 越えかけた一線

 楽しい時間はすぐに過ぎ去り夜も深夜に差し掛かる頃、普段以上に飲み過ぎた喬久を抱えて和己は馴染みの居酒屋の暖簾を後にした。愚痴の熱量が高くなるのと比例して無茶な飲み方が増えている気がする、今回は途中で酒を取り上げ無理に水を飲ませる事で事なきを得たが、このような醜態を晒すのはせめて自分の前だけにして欲しいと願わずにはいられない和己だった。 「今日回るの早くない? 歳?」 「んー? あ、そういえばさっき胃薬飲んだっけ」 「……駄目じゃん」  多少足元が覚束無くなってはいてもその足取りは確かで、最善策はこのまま喬久を自宅まで送っていく事だったが今の時間から喬久の家まで送って行くとすると、次は和己自身が終電に乗れるかすら分からない。親友の為ならばタクシー代など惜しくはないが、間もなく第二子が産まれる和己は妻から節制を厳命されてもいた。  今は里帰り出産の為実家に帰っている為喬久と会う時間を作る事が出来たが、第二子が産まれればそれこそ喬久との時間は作り辛くなる事だろう。それでもこうして定期的な飲みの席だけは了承してくれている事から理解のある妻であるとは思う。 「だぁいじょーぶ、歩けるってぇ。だい、」  入籍をしたのは妊娠を告げられてからの事であり、周囲からは散々嵌められたのだと忠告を受けたものだったが、落ち着いた頃に聞いてみれば確かに急いての事だったと明かした。喬久を優先し過ぎる余り、喬久中心に物事を考えていた事は否めない。恋する女の勘は鋭く、がむしゃらに何としてでも和己を喬久から奪い取りたいという強い思いが彼女にそのような行動を起こさせた。――女の勘は意外と侮れない事を知った。 「……喬久」  環状線の通るガード下、嘗ては浮浪者の根城でもあったその場所も今は綺麗に整備されており、コンクリート作りの壁に囲まれたその中心部には街頭の明かりも届かない。駅前へと向かう途中に訪れるそのコンクリート壁へ和己は喬久を押し付け、そしてそのまま唇を重ねた。 「和己……?」  気分良く酒に酔っていた喬久もあれだけの水を飲まされ、夜風に当たればそれが例え生ぬるい風であっても徐々に意識は覚醒していき、薄暗いガード下の中背中へと感じたコンクリート壁に気を取られる間もなく重ねられた唇に驚きを隠し切れなかった。  意識は覚醒しつつあるとしてもまだ酔いも覚めきらぬ中、重なる唇の柔らかさはこれまで喬久が感じた事の無いものだった。 「喬久、俺昔からお前の事好きだった」  コンクリートの壁に肩を抑え付けられていた喬久の両腕が、無意識に和己を押し返そうとしてその胸元へと滑り落ちる。しかしその手は和己によって絡め取られ、強く握り込まれる手を喬久は握り返す事が出来なかった。絡められた指先よりも耳に届いた言葉の方が喬久にとっては衝撃的だった。 「……酔ってんの?」 「酔ってると思うならそれでもいい。だけどお前は昔から誰の事も好きにならなかったし付き合わなかった」  喬久が誰も選ばなかったからこそ、和己は今まで喬久の隣に居られた。それはまるで喬久が他の誰でもない和己を選んでいるかのように。人生の半分以上の時間を共に過ごしてきた、いつしか側に居る事こそが自然にも思えてきていた。 「だから俺はそれでも良いと思ってたんだよ。お前が誰の物にもならないなら今の形で良いってずっと思ってた。それなのに――」  灯りの射し込まないガード下、喬久からは和己の表情が見えなかった。それでも確かに今目の前に居るのは長年の親友である和己で、握り込んできた手は微かに震えていた。この行動を起こす為に和己がどれだけの決心を固めたのか、それに気付けない程喬久は愚鈍でなかった。だからこそこのガード下を選んだのだと気付いた時、喬久は魂が抜けるような感覚に襲われた。身体は確かにこの場所にあるのに、心だけが身体から出て行こうとしているような、そんな感覚だった。 「……何で、そんな、いきなり彼氏とか」  それまで一度も口に出した事は無かった。当然の様に側に居た。隣に居る事が普通で、和己が居れば他には何も要らなかった。それがいつから恋愛感情に変貌したのかという事を、正直なところ喬久は良く覚えていない。気付いた時にはそんな感情を親友の和己に対して抱いていた。名前も良く覚えていないような同級生の女子とキスをする位ならば、和己の柔らかそうな唇に触れてみたかった。しかしこの思いを和己に一言でも伝えてしまった瞬間にこれまでの関係が終わってしまう事が怖かった。 「……俺、も、好きになったのは、和己だけ、だよ……」 「喬久……だったら何でもっと早く言ってくれなかったんだ」  和己は優しいからきっと無理をしてでも自分を受け入れようとしてくれるだろう。可愛いと噂の後輩と付き合っていた時も、他校の女子と付き合っていた時も、それが和己の幸せなのだからと喬久は重く汚れた独占欲を自身の奥深くへと押し込んだ。その結果和己の結婚を聞いた時も喬久は素直に祝福する事が出来た。 「……俺、男だし。お前、女の子大好きじゃん」  誰よりも大切だったから、誰よりも幸せになって欲しかった。例え自分の想いが決して実らないものだとしても。 「そんなの、周りに合わせてただけでっ……」 「俺は、そんな事も上手く出来なかった……だからっ」  同級生が持ち込み回し読んでいたグラビア雑誌の中で好みの女の子を選ぶ事も、クラスの女子の身体を眺め制服の上からその肉感を想像するのも、全て周りからはみ出さないように異端とならない為の振る舞いだった。  喬久はそんな和己を見ながら、それが普通の男子高生なのだと思うようにしていた。クラスの女子には親切に、クラスの男子とは年相応に下劣な会話をして時折女子から白い目で見られ――和己が居るから男子達と集っていてもおかしくは無かった。まだ男女交際には縁遠い存在なのだと周りに思わせる事が出来た。しかしそれでも本当はずっと――喬久の指先に力が籠もり和己の手を握り返す。あの時に思いを伝える事が出来たのならば、和己を他の女に奪われる事も無かった。 「……は、っ」  深い口付けと、先程には無かった弄る舌先の動きに喬久の唇の隙間から声が漏れる。思わずその舌を受け入れ舌先同士の感触に没頭してしまうのは反射のようなもので、十年以上隠し続けていた思いを解き放った喬久はもっと深くと追い求めたが、カチャリと響く金属音と股間を弄る手の動きに正気を取り戻し、スラックスの中へ今正に捩じ込もうとしている和己の手首を掴む。 「喬、久っ……俺、まだお前の事……」 「待っ、待って和己駄目だって……」  切羽詰まった息遣い、彼女と別れた時であっても和己がこのように悲しげな声をあげるところを喬久は見た事が無かった。幾ら人目に付き難いガード下であっても、積年の思いが通じ合った瞬間であっても、喬久の中心部が反応しかけていたとしても、喬久は今この瞬間に和己を止めなければならなかった。 「……男同士でも、……不倫は、嫌だ」  この時ほど喬久は自らの意気地なさを呪った事は無かった。思い返せばいつどんなタイミングであってもそれを伝える瞬間はあった筈だった。嫌われる事が怖くて踏み出せなかったのは喬久の責任で、その為に今の和己の家庭を壊す事など出来なかった。  喬久が潔癖である事を痛いほど良く知っている和己は、喬久から告げられた一言に表情を曇らせる。もしかしたら喬久からも好きという言葉を聞く事が出来たのは、親友である喬久が和己の気持ちを慮っての優しい嘘だったのかもしれないと心の何処かに引っ掛かっていたからだった。しかし間違いなく喬久は濃厚な口付けで反応を示しており、長く想い続けた相手が間違いなく自分に劣情を抱く事が出来るのだと分かった和己はこれ以上自分の思いを隠し続けたくは無かった。  この手を離してしまったら――もしかしたら二度と喬久は自分とは会おうとしないかもしれない。お互いの気持ちが分かってしまったからこそ、家庭の事を考えて自ら身を引くことを選ぶ、喬久とはそういう人間だった。 「……俺が、離婚したら」 「馬鹿な事言うな。子供、可愛いんだろ?」  もし障害となっているのが和己の家庭だと言うのならば、それさえ無ければ――それを手放さない限り喬久を手に入れられないというのなら、それさえ手放してしまえば喬久を手に入れられるという考えに急かされた和己の言葉を喬久は低い声で制する。 「そうだけど……」  喬久の指摘は尤もな事で、それが妻の策略だったとしても確かに血の繋がった自身の子は可愛い。おまけに間もなく第二子も産まれる。それら全てを簡単に手放せるほど和己は薄情な男では無かった。  和己の手から力が抜け、喬久はコンクリート壁に背中を預けたままずるずるとその場に崩れ落ちる。大切な和己にそんな決断をさせようとしてしまった自分を喬久は許せなかった。和己はただ呆然と立ち尽くし、既に喬久が目の前に居ないコンクリート壁を拳で打ち付ける。欲しいものは目の前にあるのに、それは決して手に入る事が無い。 「頼むから……越えないで、これまでと同じ関係で居たい、から……」  喬久は俯いたまま呟く。何もかもがもう遅過ぎるけれど、それでも和己には笑顔で居て欲しい。体中の水分が全て涙となって流れ出ていくような感覚に喬久は両手で顔を覆う。  これから先、決して和己に愛される可能性が無くても構わない。それでも側に居たいと願ってしまう事はただ喬久の我儘だった。
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