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いらっしゃいませ
この本屋の棚には余白が多い。
まだ開店して間もなく、委託陳列するような店でもない。仕入れ作業がはかどらないのだ。それもこれも、本屋離れのせいだろう。
本棚に本を埋め尽くさなければ、開店していても本は売れない。売ることができない。この真実の物語だけを集めた本屋はまだ未完成だ。
読書の秋などというが、遊び疲れた夏を忘れるための時期。店の前を歩く人々の足並みは誰もが早い。
外では祭事が行われていて、いつもとは違う種類の熱を帯びて行く者も見かける。
ざわついた街。人。
今日も数人は本を埋める手伝いに来るはず。これだけ人がいるのなら。
特に「時間が潰せる」などと思って本屋に入ってくる者が相応しい。
ああ、この本屋に気付いた者が覗きに来たね。
「いらっしゃいませ」
いつも通り返事がない。声を掛けられているのが自分だと気付いていないのか。客は一人しかいないというのに。
「いらっしゃいませ」
別に返事が欲しいわけではない。だが、声を掛けられているのが自分なのだと認識してもらわなければ困るのだ。
だが、まだ返事はなかった。ただ、この本屋の文字をなぞり読んでいるだけ。
もしくは、読み上げ機能で機械に読ませ、それを聞いているだけ。
そうだ。客はあなただ。
ようやく気付いてもらえたか。まだ気付かないか。
今ここで、スマホかパソコンかタブレットだか知らないが、データを読み込みこの文字の連なりを読むあなただよ。
「いらっしゃい。この店は初めてだね?」
「 」
「だろうね。好きに見てくれて構わないよ」
「 」
この店に並ぶのは、多種多様な物語。淡い恋、激しい恋。仕事での成功、人生の失敗。どれも全て真実。
ただ、欠点は結末がどれも同じということだ。
真実の本だから、それは仕方がないことではある。
どうやら今来た客も、数冊眺めただけで、その同じ結末に、それもバッドエンドに眉間に皴を寄せているようだ。
「 」
「そう言われましても、この店は真実だけを書いた本を置いてありますので」
「 」
「ええ、お気になさらず。どちらにしても、本棚が埋まるまでは売る気はございませんから」
「 ?」
私はその疑問の答えに、一冊の本を広げた。
どうやら随分と勘のいい客のようだ。装丁も中身も真っ黒な本を目にして、客は逃げ出そうとしている。
「もうすぐ、あなたにも同じ結末がやってきますよ」
「 !」
扉は開かない。声も外には届かない。
「さあ、振り返りなさい。自分の半生、いや、人生の全てを」
真っ黒な本を中心に本屋が蠢く。
波打つ床によって、あなたは開かれた本に引き寄せられた。
身体を吸い込むように口を広げた本。
抵抗しようと利き手を伸ばすが、それは聞き手のために在るもの。本は血、肉、骨、全てを溢すことなく吸い尽くす。
腕を失ったあなたは、情けない声を上げて涙を流し続ける。その涙も床に溢すことなく本が全て飲みつくした。涙は物語にとって大切な要素だ。
絶望と共に、本はあなたを細かく見聞するように、じわりじわりと食していく。
本を蹴りに来た足の爪先、くるぶし、すね、ふくらはぎ。
一歩一歩踏みしめてきた人生。その中での成長と失敗。全て、ひとつ残らず。
そうやって首から上だけになった時、ようやくあなたは気付くのだ。
本の中に永遠に残される悦びに。
「ああ、どうやら喜んでいただけたようですね。皆さん、最期はそうなんですよ」
本棚に一冊の本が新しく加わった。
それでもまだ本棚には余白がある。
まだ本を売るわけにはいかない。
訪れた者を帰すわけにいかない。
少なくともこの祭事が終わるまでは。
「いらっしゃい」
うむ、また返事がない。自分の物語だというのに、気付かぬ客ばかりだ。
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