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最後の晩餐は大好きなソーダ味のアイスだ。しゅわしゅわと口内を程よく刺激しては溶けていく感覚が、まるではかなく消えていく命の灯火にそっくりだと思ったから。
夏休み中の深夜のキャンパスは人気がほとんどなく閑散としているけれど、昼間の熱気が冷めていないせいか人々の活動のにおいが降り積もっている気がする。九月になったというのに熱帯夜が続いている今年は、まだ体がアイスを受け入れられる気温を保っている。
大学の目の前にあるコンビニで購入したから、アイスはまだまだ溶けないはずだ。ゆっくりと時間をかけて食べ切って、私は教育学部棟の屋上から飛び降りる。もう、決めたことだ。
弥生の書く小説は、と脳内で早川さんの冷静な声がよみがえる。彼女のその声は冬の雨のように温度がなく、その冷たさに鎖でがんじがらめにされたように私は動けなくなった。
起伏がないんだよね。ただ綺麗な文章が続いているだけ。これじゃあ一次選考も通過できなくて当然だよ。スパイスの足りないスープカレーって感じね。スープカレーって、おいしくないものって本当にただ水っぽいだけだから。
落選した小説を早川さんに読んでもらったときの容赦ない感想は、北海道出身の彼女らしいたとえだと思ったけれど、スープカレーを食べたことのない私にはピンとこなかった。むしろ、彼女のその感想にむくむくと反抗心が湧いてきたものだったが、大手出版社の新人文学賞の大賞作品に選ばれたのは、私の恋愛小説ではなく早川さんのミステリー小説だった。文芸誌やネット記事の見出しには【二十歳の現役大学生 衝撃の受賞作】という文字が躍っていた。
【砂漠に降り注ぐ偉大な雨になりたいんです。乾ききった現代人の心を潤す雨の役割を果たすような、そんな小説をこれからも書き続けていきたいです。】
インタビュー記事のコメントはそう締めくくられていて、写真で切り取られたスーツ姿の早川さんはキャンパスにいるときよりも大人びて近寄りがたく見えた。砂漠に降り注ぐ雨なんて規模の大きなこと私には言えないな、と彼女との間にそびえたつ壁の高さを実感した。
教育学部棟に足を踏み入れたがエレベーターは使わず、階段を一段一段上る。足を動かしている方が早川さんの言葉を忘れることができると思ったのに、むしろ足音とリンクするように彼女の言葉が夜のキャンパスの中に反響するようだった。これならエレベーターで四階分を一気に上がった方がよかったかもしれない、という考えが一瞬頭をよぎるが、他学部の学生が真夜中に忍び込んで堂々とエレベーターを使うのは図々しいな、と思い直した。
教育学部棟の屋上は天文部の活動拠点になっているから施錠はされておらず、誰でも入ることができる、というのは学生なら誰でも知っている。夏に行われる市内の花火大会は、会場まで足を運ばなくても教育学部棟の屋上から見ることができるからだ。私が籍を置いている文学部棟の屋上はきっちりと施錠されているから、入るのは断念した。その方が知り合いに見つからなくていいかも、とも思ったけれど、他学部のキャンパスは目に映る景色に馴染みがなくて、同じ大学の敷地にあるというのになんだか私を拒絶しているような冷たさだった。上るのを躊躇いそうになる足を、なんとか進ませる。
こういう、階段を踏みしめながら上る、という場面をフィクションの世界で見たことがある気がする、と頭の片隅で声が上がる。小説とか漫画とか紙の媒体じゃなくて、きちんと映像で見た、とそこまで思い出して同時に浮かんだ光景は高校の教室だった。
遮光カーテンを全部閉めて、真っ暗にした多目的室。
スクリーンに映された、映画部の作った映画の一場面。
主人公である野球部のキャプテンが甲子園に出場できなくて、学校の屋上で叫びながら泣くシーン。あの主人公の階段を上る足取りと、今の私の歩き方は、きっと同じ重さだ。
「学校の屋上って普通、鍵閉まってるよね? だって、撮影のときだって特別に開けてもらったんでしょ? いつもは入れないじゃない」
映画を見たあと、脚本を担当した知樹にそう文句を垂らしたのは、私だ。知樹は「創作の世界だからいいんだよ」と肩をすくめて笑った。その映画は特に脚本がよかった、と私は感じたはずなのに、素直にその感想を口にすることができなくて、つい重箱の隅をつつくような発言をしてしまったのだ。
知樹の脚本に駄目出しをしていないと、負けを認めるようで怖かった。二度と自分が立ち上がれなくなるような、書くことを諦めてしまうような不安が渦巻いた。
本当はカメラとか撮影機材とかに興味があって映画部に入ったのに、脚本を書ける人がいないから書いてくれって頼まれたんだ。
そう眉根を寄せてため息をついていた幼馴染の知樹。本気で文章を書くことと向き合いたいと思っていないはずの知樹に負けるのは、腹立たしかった。
腹が立っている時点で、知樹の創作物に負けたことを認めていると自分でもわかってはいた。
高校時代の苦い思い出や早川さんの言葉なんて、いらなくなった付箋をぺらりと剥がして捨てるように跡形もなく忘れてしまえればいいのに。顔をしかめながら屋上への階段を上り切り、重い扉に体重を預けて開ける。
日中は雨が降っていたから天文部の活動はないだろう、と踏んでいたけれど、予想通り人影はどこにも見当たらなかった。青々とした雨の匂いだけが空気に溶けている。外から見た教育学部棟のいくつかの部屋には電気がついていたけれど、ここまで上がってくる人はいないだろう。頬をなでる風は湿り気を帯びていて、運動後の汗を乾かしてくれない。やっぱり夏はまだまだ去りそうもないと感じた。四季、なんて言葉があるけれど、今年の秋は一体どこへ行ってしまったのだろう。高校で学んだ俳句をふと思い出す。秋にだって立派な季語がたくさんあるけれど、その季語たちを感じる瞬間があるのだろうか。コンビニで受け取った袋に手を突っ込んでアイスを取り出す。若干溶けているようで、ゆっくり食べている時間はなさそうだ。アイスはきっと夏の季語だ、とずれたことを頭に巡らせながら一口目をかじると、しゃく、と軽い歯ざわりのあと、舌に絡みつく甘さがやってきた。淡く弾けるような刺激はやっぱりソーダ味独特の感覚で、まだ生きていることを実感させてくれる。
そう。まだ、生きている。もうすぐ、命が絶たれる。
一口かじるごとに、砂時計の砂がこぼれ落ちるように残り時間が空間から欠落していき、タイムリミットが迫る。
午前零時を過ぎた屋上からの景色は、なんの感慨もなかった。真っ暗な中、キャンパスのところどころに白々とした灯りが見えるだけ。通りに目を向けてもコンビニの電灯が煌々と眩しさを放っている程度で、特に目を引くものなんてない。田舎にある大学の屋上からの風景なんてこんなものだ。なんの面白みもない。それでも私は一人きりの部屋で命を絶つのではなく、大学の屋上から飛び降りることを選んだ。私の苦しみを早川さんに思い知らせてやるために。
アイスを噛み砕きながらサンダルを脱いで、素足をコンクリートに直接乗せる。ひんやりとした感触は、階段を上って汗ばんだ足の裏を心地よく冷やした。それでも屋上から飛び降りるという熱意を冷ましてくれそうにはなかった。
私の応募作が受賞していたら。
早川さんに少しでも認めてもらえていたら。
知樹に対して素直になれていたら。
どこかで誰かが私の才能を認めてくれていたら。
自分の能力がプロ作家の足元にも及ばないことを自覚できていれば。
少し歯車の噛み合い方が違えば、きっと私はここに立っていなかった。最後の晩餐に何がふさわしいかなんて、微塵も考えていなかった。明日からも大学のレポートと並行して小説を書き続けていられた。私の日常を積み重ねられた。
だけど、もう無理だ。パズルのピースがぼろぼろと崩れていくように、心が砕けてしまった。
溶けたアイスの雫が、手の甲を伝う。地面に落下して、小さな染みを作る。この染みもいつかは蒸発して何の形跡もなく消え失せてしまうのだ――
「弥生?」
唐突に呼ばれた名前が一瞬、自分のものだと思えなかった。もう一度「弥生、何やってるの?」と夜の闇を切り裂く鋭い声が飛ぶ。
振り返ると、屋上の扉の傍に知樹が立っていた。白いTシャツが闇の中にぼうっと浮かび上がっている。咳が出る前触れのようにひゅっと喉が狭くなって息が詰まる。
つかつかとスニーカーの足音を響かせ歩み寄ってくる知樹に対してとっさに「来ないでっ!」と叫び声を絞り出す。知樹の足が透明な壁が境界線をつくったようにぴたりと止まる。
「なんで知樹がここにいるの」
「聞きたいのはこっちだよ。俺、教育学部だからね? さっきまで研究室でレポート書いてたんだ。気分転換に屋上に出たら、弥生がいた」
ふつふつと怒りがこみ上げてくる。知樹の顔なんて見たくなかった。
高校時代、私がノートに綴った小説はクラスメイトの間で回し読みされていた。女子だけでなく男子の手にも渡っていて、みんなが口をそろえて絶賛する中、知樹は一言の感想だって伝えてくれなかった。
脚本を書いていた知樹はきっと、自分自身の作品の方が優れていることを確信していたのだろう。知樹は脚本を書くことに興味がないと言いつつ、その能力を認められ、周りの映画部の部員に「脚本を書いてほしい」とせがまれたのだ。作品を生み出すことを求められた側だ。一方の私は自発的に書いて他人に読ませているだけの自己満足だ。誰も私の作品を積極的に求めていたわけではない。
アイスの最後の一口をかじって、棒を屋上から投げ捨てた。白さを放つ木の棒はすぐに暗闇に飲み込まれて、世界から消えたようだった。
「それ、ソーダ味のやつ?」
知樹の視線が屋上の転落防止用の柵を超えるように動く。
「弥生が、一番好きなアイス?」
知樹の質問に、私は答えない。
高校からの帰り道、夏空の下で一緒にアイスを食べたことを思い出した。
同じ図書委員会に入っていた私たちは、帰りが一緒になることがあった。
アイス食べたいな、と呟くと、校則を破ることに対して文句も言わず知樹は付き合ってくれた。知樹はチョコとかバニラとか、いつも違う種類のものを選んでいた記憶があるけれど、私はいつも決まって太陽の光を反射させる薄青色のソーダ味だった。それを知樹は覚えていたのだろう。
「当たってるかどうか、確認しなくてよかったの? あのアイス、当たり付きじゃない」
知樹が悠長に下を指さす。柔らかい風が髪を揺らしている。
「一緒に下りて確認しようよ」
のんびりとした口調だけど、無理やりにでも私を屋上から連れ戻そうとしているのだろうとは想像できた。あのアイスの当たりを引き当てたことなんて、今までに一度もないことは知樹だって覚えているはずだ。キラキラとした気持ちを抱きながらアイスにかじり付いても外れしか現れなかったから、当たりなんて存在しているのかな、と私がいつもぼやいていたから。
「もう、当たってても関係ないから。私は今から飛び降りるの」
アイスの棒は地面に落下しても軽く跳ねるだけで割れたり折れたりしないだろう。だけど人間が四階の高さから飛び降りたら、無事ではいられない。この世界から本当にいなくなってしまう。
「そう」
平坦な声を出した知樹にかちんときた。もっとうろたえてもいいのに。騒いでくれたっていいのに。どうしてそんなに冷静でいられるのだろう。そこまで思い至って我に返った。
私、今、知樹に止めてほしいって思った?
「最後に、確認していい?」
最後、という言葉に一瞬肩が跳ねるけれど、さざ波のように揺らいだ内面を悟られないように「何?」と声を張った。
「屋上から飛び降りるなんて発想、どこから出てきたの? そのエネルギーの根源は何?」
エネルギーの根源、なんて絶妙な言い回しをするなあと思わず感心した。それを鼻で笑い飛ばし、持っていたビニール袋を柵に結び付けた。ゴミになるものをもらうのは間違いだった、と後悔した。私がいなくなったら知樹が片付けてくれるだろうか。
「文学部の早川さんって知ってるでしょ。有名な新人賞取って大学中で話題になってる人。あの子に勝てないなら生きている価値がない」
吐き捨てるように言葉にしながら自分自身の感情も整理していく。
小説を書くことは私の生きがいだった。創作物の価値を認められてこそ、私の生きる意味があった。
誰でもいい。誰かに、私の小説を認めてほしかった。この世界にいていいと、肯定してほしかった。ただそれだけだ。甘いアイスを食べたはずなのに、口の中には苦味がこみ上げてくる。
そのとき、小鳥のさえずりのように呑気な音が響いた。スマホの着信音だとはわかったけれど、私はスマホを持ってきていない。知樹のもので間違いないはずなのに、知樹は指一本動かさない。代わりに呆れたようにため息を吐き出す。
「やっぱり、弥生の発想は突拍子もないね。だけど、そのエネルギー、ぶつける場所が違うんじゃない? 弥生の力が向かうべきところは、やっぱり創作でしょ」
「もう無理だよ」
間髪を容れず返しても知樹は首を横に振る。
「高校のとき、弥生の小説がクラスで回されていたじゃない? 俺、あれを読んで悔しかったんだ。俺の書く脚本より何倍も面白かった。だから何も感想を伝えられなかった。何も言葉にできなかったんだ」
「は?」
何を言っているのだろうか。面白かったのは知樹の脚本の方だ。映画部は素晴らしい作品を上映していたのに、宣伝が下手で多目的室の椅子は空席が目立っていた。それをもったいないことだとじれったく感じていたのに。
同じだったのだ。私が知樹の脚本に屈辱を感じたように、知樹も私の小説に嫉妬していた。屋上の柵をぎゅっと握っていた手から自然と力が抜けた。掌の汗が風にさらされて乾いていくのと同時に、急に四階分の階段を上った足にだるさがのしかかってきた。
「創作って、苦しい時間の方が長いよね。生みの苦しみって言葉があるくらい。でも、弥生はそれを何度も乗り越えてきた。これからもきっと乗り越えて……」
知樹の言葉を途切れさせたのは、再び鳴り出したスマホの着信音だった。
鳴りやまないその音にうんざりしたのか、やっと知樹が電話に出た。
「フウト? 今ちょっと手が離せないんだけど……え、アイスの棒が降ってきた?」
知樹がスマホから耳を離し、私に近寄りながら手元で何やら操作し始めた。唐突に私の方にも男の喚き声が聞こえてきた。画面をのぞき込むと【風斗】と表示されている。「教育学部の友達なんだけど」と知樹が小声で説明してくれる。
『雨じゃなくてまさかのアイスの棒だよ? それが頭を直撃。ゴミでも投げつけられたのかなって思ったら、それ、当たりって書いてあるんだよ。当たり付きのアイスの棒が降ってきたんだ! 一人でウケちゃったよ。洗ってコンビニにでも持ってったらアイスと交換してくれるんかな。これ、ソーダ味のアイスだよな? 知樹も一緒にコンビニ行かねえ? どうせ大学いるんだろ』
偶然の出来事にハイテンションになっているのだろう、風斗くんという知樹の友人はバイト先で理不尽に怒られた話をまくし立てるように話す。どうやら居酒屋でのバイトを終えたところだったらしいが、客に怒鳴られて落ち込んでいたらしい。
『研究室に行ったら知樹いるかなって思って大学まで来たけど、まさか当たりが降ってくるなんて。一日の終わりにいいことあったわ』
砂漠に降り注ぐ雨になりたい。インターネット記事の早川さんの言葉が暗闇に灯る蝋燭のようにぽっと頭に光った。私の文才ではきっと、早川さんのようにはなれない。だけど、今この瞬間、知樹の友人である風斗くんの心を少しだけでも潤すことができたのではないか。そう思うと同時に乾ききった自分の脳内が潤いで満たされていくような気がした。真っ黒だったオセロの盤面が一瞬で白に染まっていくように景色が変わった。
「弥生、風斗のところに行こう。あの当たりは弥生のものなんだから返してもらおう」
知樹が背を向けると、私も自然とその背中を目で追った。
「返してもらわなくていいよ」
緩く首を横に振って応える。絶望的な表情で振り返った知樹に微笑む。きっとまだぎこちなく硬い笑い方だ。脱いでいたサンダルに足を突っ込むと足裏に付いたわずかな砂粒が皮膚に刺さって痛かった。
「その当たりは風斗くんにあげるよ。でも、なんかお腹すいちゃった。知樹、コンビニ付き合ってよ」
サンダルを履いた足を進ませれば、ザリ、と硬い輪郭を持ったコンクリートを踏みしめる感触が伝わってくる。ちゃんとこの世界と繋がっている。自分の足で立っているという当然のことに涙が出そうになった。口の中にはさっき食べたばかりのアイスのしゅわしゅわがよみがえるようだった。
私の生きる意味はやっぱり小説を書くことにこそ存在している。それは変わらない。
応募した小説を知樹に読んでもらおう、と剥がれ落ちていた感情の破片が戻ってくる中で思う。知樹がどんな反応を見せても、その素直な態度も言葉もすべて受け入れよう。そうすればもう思い出の付箋を捨てたいなんて気持ちはなくなるかもしれない。
知樹が屋上の扉を引くと、ギギ、と耳障りな音が響いた。その音が夜空へ消えていく。ドアをくぐる直前に首を巡らせて空を見上げると、いつの間にか満月が顔を覗かせていた。次に屋上へ訪れるのは来年の花火大会のときにしよう、と気の早い予定を脳内のスケジュール帳に書き込んだ。
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