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3 救いの手は新たな悪夢の始まり
マリアンヌ・スタンリーは帝国で名の知れた侯爵家の令嬢だった。
妻を早くに亡くしたスタンリー侯爵は当時未亡人だった子爵家のマリアンヌの母を見初めて再婚。
当時5歳だったマリアンヌにスタンリー侯爵はとても優しい父に見えた。
でもいつの頃からだったか……。
義父であるスタンリー侯爵のマリアンヌを見る目つきが変化した。
マリアンヌが15歳になっても社交界にデビューする事を極端に嫌がり、公の場に出す事を許さなかった。
美しい菫色の瞳、帝国でも大変珍しい青みがかった輝くばかりの銀髪の美少女。
社交界ではこの様な噂はあったが実際にその姿を見た者は数える程しかいなかった。
そんなスタンリー侯爵は帝国でも心配性の良き父親として貴族達からは見られていたのだ。
――子供の頃は、私を膝に乗せるのがお好きな子煩悩な人なのだと思ったのに。
その行為はマリアンヌが年頃になっても変わらず、むしろ身体への接触は頻繁になっていった。
純真なマリアンヌは、人当たりも良く人々から尊敬されるスタンリー侯爵のする事をいやらしいと感じてしまう自分自身こそが汚れたいやらしい人間なのではないかと思う様になっていった。
マリアンヌが侯爵家での息の詰まる生活に限界を感じていたそんなある日、友人の子爵令嬢から貰った一通の仮面舞踏会の招待状が運命を変える。
まだデビュタントもしていない15歳のマリアンヌにとって、仮面舞踏会への招待状はとても魅力的な誘いだったのだ。
***
「失礼、菫色の美しい瞳のレディ……。ファーストダンスを踊る栄誉を私に……」
美しい金髪、碧い瞳の美丈夫に声を掛けられたマリアンヌは舞い上がってしまった。
侯爵家では、まだデビュタントもすませていないマリアンヌが何処かの男性と話しをする事は固く禁止させられていた。
女性としての価値が下がる、というのがスタンリー侯爵の考えなのだと教え込まれていた。
マリアンヌはその教えを忠実に守っていたので、若い男性はたとえ護衛騎士であっても会話らしい事をしてこなかったのだ。
「はい……喜んで」
夢の様な時間だった。
(このまま時が止まればいいのに)
踊り疲れたマリアンヌは、バルコニーへ出ると胸の高鳴りを鎮めた。
(あぁ……なんて素敵なの? 私の身分を誰も知らない。ここでは自由におしゃべりやダンスを踊れる……誰も私を咎める者もいない…)
冷たい夜風にブルリと身震いすると、突然ふわりと肩に上着が掛けられた。
驚いて見上げると、そこには先程ファーストダンスを踊った男性が優しく自分を見下ろしていた。
「あ…ありがとうございます」
真っ赤になっておじぎをするマリアンヌをその男性はクスクスと笑って、手に持ったグラスを渡した。
「宜しければこちらをどうぞ。喉が渇いているかと」
マリアンヌは熱い頬を冷ます為に差し出されたグラスのワインを一口飲んだ。
「とても…美味しいです。何だか身体がフワフワする飲み物ですね?」
「おや……もしかしてワインは初めて? 嬉しいな。貴女が初めて口にするワインをご一緒出来るなんて」
チュ……とマリアンヌの美しい銀髪をすくい上げ、キスを落とす男性が燃える様な瞳でこちらを見つめている。
マリアンヌは大人の男性から熱い眼差しを向けられ真っ赤になった。
「顔が赤い……。もしかして、酔ってしまった?」
「あ……」
頬に触れられ、そのまま仮面を外されたマリアンヌは瞳を潤ませていた。
(ど、どうしましょう……。顔を見られてしまったわ!)
慌てて仮面を付けようとしたが、その手を取られ細くしなやかな指先にもキスを落とされる。
「美しい……。まるで貴女は月の女神の様だ」
カチャリ……と男性が仮面を外す。
(なんて美しい方……)
黄金の冠を溶かした様な艶やかな金髪。
高くすっきりとした鼻梁。
涼やかなサファイアの様な瞳がマリアンヌを優しく見ている。
「さぁ……初めて飲むワインをもっと味わって?」
マリアンヌは男性の言葉にコクリと頷くと、もう一口ワインを飲んだ。
「凄く……美味しいです」
「貴女の様な美しい人は初めて見るな。これまで社交の場で見かけなかったけれど……」
初めて飲んだワインがマリアンヌの口を軽くし始め、気付くといつの間か初めて出会った男性に自分がスタンリー家の令嬢マリアンヌなのだと教えてしまった。
そして今、自分が抱えている悩みまでも……。
「――可愛いマリアンヌ。君は侯爵に騙されているよ! 大人の男性が年頃のレディを膝に乗せたり、腰や髪に触れる行為は邪な気持ちが無ければしないよ。君を膝の上に乗せるのは、どんな時?」
マリアンヌは真っ青になり思い返してみる。
「えっと……お父様が執務室にお一人でお仕事をされている時…私にお菓子を持って来させるのです。お父様は甘いお菓子が大好きで、私が運んだものでないとお仕事がはかどらないと言うので」
――夜に執務室で仕事をする侯爵は、決まって菓子をマリアンヌ一人に運ばせ、彼女を膝の上に乗せる事を幼い頃から命じていた。
子供の頃は侯爵の膝の上でお菓子を食べさせて貰う事が何よりの楽しみでもあった。
けれど、いつの頃からだったのだろう。
この行為は決して人に言えない恥ずべき事だと思ったのは…。
「――可愛いマリアンヌ、私とこうして過ごす事は私達にとっては当たり前の事なのだが、誰にも話してはいけないよ? 特にお母様には言わない様に。お母様が悲しんでしまうからね……」
スタンリー侯爵のこの発言はマリアンヌに暗い影を落とす事になる。
(私は、お母様が悲しむ行為をしている……)
ならば、と今後は膝の上に乗らない様にするとスタンリー侯爵はとても悲しそうな顔をするのだ。
「マリアンヌは私の膝の上に乗る事が大好きだったのに。この部屋で一緒に過ごす時間は私にとってかけがえの無いものだったのに。マリアンヌが黙っていれば誰も悲しむ者はいないんだよ?」
こうして、マリアンヌはスタンリー侯爵と二人だけの秘密を持ってしまった。
マリアンヌが周りの人間に秘密にして膝の上に乗る事を承諾してから、侯爵の態度は変わっていった。
以前はマリアンヌを膝の上に乗せて菓子を手ずから食べさせるだけで満足していたのに、近頃は彼女の腰を抱き寄せたり髪をすくい上げてキスをしたりしてくるのだ。
マリアンヌはこの行為が母を悲しませる行為なのだ、と言われてから何とか理由をつけて侯爵と二人きりにならない様に努力してきた。
たとえ、それが邪な気持ちから来るものでは無くても。
***
「それは、マリアンヌを秘密の愛人にしようとする恐ろしい悪魔の計画だよ。幼い頃から育て上げた無垢な君を自分好みの愛人にする、それが狙いさ」
マリアンヌの瞳に涙が溢れる。
「そ、そんな……。では、私はどうしたら……」
すると、その男性はマリアンヌの足元に跪き、彼女の手の甲にキスを落とした。
「私の名はアレクシス・フォン・ピレーネ。帝国の西部、ピレーネ公国と言えば分かるかな?」
マリアンヌも名前は聞いた事があった。
(西部のピレーネ公国といえば、最近大公がお亡くなりになって当主が代わったとか)
「あの……まさか、ピレーネ大公殿下でいらっしゃいますか?」
アレクシスは、ニコリと微笑むとじっとマリアンヌを見つめる。
「どうか、私の妻になって頂けませんか? 美しいマリアンヌ」
「……っ」
15歳で初めて会話した男性からプロポーズをされたマリアンヌは驚きの余り声が出ずに固まってしまった。
「ふふふ。なんて可愛らしい人なんだ……」
立ち上がったアレクシスに腰を引き寄せられたマリアンヌは突然唇を奪われた。
「んっ……ふぁっ」
初めて飲んだワインが身体の抵抗をする力を奪い、頭がフワフワする。
マリアンヌはこうして初めて親しく会話をした男性と結婚の約束をしてしまったのだ。
***
――遠い昔の事に感じられるこの記憶は、一度死んでいるからだろうか。
あのプロポーズの後、正式にピレーネ大公から結婚の打診書が送られ、思った通りスタンリー侯爵は激高した。
しかし、何故かそれから何日も経たないうちに突然スタンリー侯爵はあれ程執着していたマリアンヌの結婚を認めたのだ。
その上侯爵は当時としてはかなりな金額の持参金もマリアンヌに持たせた。
――後になり、アレクシスから当時の状況を聞いたマリアンヌは驚いた。
「愛しいマリアンヌ。君の勇気ある告白は素晴らしいものだったよ。お陰であの高慢で鼻持ちならなかったスタンリー侯爵は予想以上の持参金を用意する事になった。これをご覧?」
婚姻後、アレクシスが見せたのはあの仮面舞踏会でお酒に酔ったマリアンヌがスタンリー侯爵との悩みを相談している場面が映し出された魔道具だった。
「この映像を見た時のあの男の顔を見せてやりたかったよ! ありがとう。マリアンヌは私に富を与える女神様だったんだね」
アレクシスの美しい顔がマリアンヌにはこの時恐ろしい怪物に見えた。
(そんな筈はない。アレクシスは確かに私を悪魔から救ってくれた)
そう否定して、この時マリアンヌは心の中に燻る疑念に蓋をした。
幼少の頃から心の中に疑念が生じても蓋をすると、驚いた事にマリアンヌの中ではそれは無かった事になる。
本当は、ただ心に生まれた痛みを麻痺させるだけの一時しのぎに過ぎなかったのに。
(私が平気な顔をすると、大抵の事はうまくいく…。そうよ。考える事を止めればいいの)
そうしてマリアンヌは結婚して初めて生まれた疑念に蓋をした。
アレクシスに対して初めて自分の感情を隠した瞬間だった。
それから1年が過ぎた頃、マリアンヌは子を授かった。
――後に人々はこの娘を『怪物公女』と呼ぶ事になる。
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