自分で忘れろ

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 名前を呼ばれて女はドアを開けた。  白を基調とした明るい室内は思いの外広く、物の少ない応接室のようだった。医師でカウンセラーと思われる男はすでに正面に座っている。 「おかけください」  促された通り、女はおずおずと腰掛ける。 「最初にひとつ注意点ですが、僕は宇宙人です」  カウンセラーはにこやかに言った。 「ですが、地球に適応しておりますので、ご安心ください」 「はあ」  沈黙は長めに続いた。女は不安に顔を曇らせ、明らかに困っている。得意げだったカウンセラーは苦笑いを浮かべた。 「やっぱりウケないかぁ」  一方、女の胸には後悔が拡がる。   失敗だったかもしれない。  ネットで調べたところ、カウンセリングルーム「コスモ」は値段は手頃で、とにかく話しやすいというコメントが数件あった。けれど、これは求めていた話しやすさとちがうかもしれないと、女は考え始めていた。 「申し訳ありません。ええと、気を取り直して」  不信感を見て取ったカウンセラーは慌てて姿勢を正す。 「問診票を読ませていただきましたが、スマホ依存ですね」 「はい」  女は素直に答えたので、カウンセラーは少しホッとする。 「夜も寝ないでみてしまう?」 「……はい」 「どんなの見てます?」 「……元彼の……今の彼女のSNSです」 「ずっと見てしまうんですか?」 「……はい」  カウンセラーの男は質問をやめ、問診票を眺めた。  彼女のSNSを見ると苦しいのにやめられない。彼とどんなところへ出かけているのか見てしまう。見ると後悔して、もっと違う何かを調べないと辛くなって、いつまでもスマホを操作している。気づくと夜中の三時を過ぎている…… 「眠れないのはツライですね」 「見ないように電源を切ったり、遠くへ置いたり、色々試したんですけど、結局続かなくて。私、意志が弱いんです」 「そんなことないです」  カウンセラーは視線を問診票から女に向け、至って穏やかに、冷静に言葉を投げかけた。 「弱くなんてないですよ。こんなに正面向いて戦っているじゃないですか」 「……でも」  女の目に涙が浮かぶ。寝不足のせいで職場で何度も居眠りをしてしまい、仕事を辞めざるを得なくなった。そんな自分が情けなくて仕方ないのに、止められないのだ。 「彼は彼女を選んだことが悲しくて、私と一緒にいるときも彼女のことを考えていたことも、私が怒ったらあっさり捨てたことも許せなくて。どうしようもないことなのに。苦しいです……」  女の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。 「彼の名前は?」  その様子を見守りながら、カウンセラーは優しく訊ねる。女はカウンセラーに彼の名前を告げる。カウンセラーはメモ用紙にサラサラと名前を書いた。   今度はカタカタとPCに何かを打ち込んで、印刷した紙にはんこを押して女に手渡した。それは処方箋だった。 「この人を忘れられる薬です」  メモ用紙に書かれた彼の名前を指差していう。 「今夜、寝る前に一粒だけ飲んでください。起きたら彼のことはすっかり忘れているでしょう」  女はまた疑いの目でカウンセラーを見ている。 「冗談です。これはごく微量の睡眠導入剤です。今夜だけ飲んでみてください。キッカケさえあればきっとぐっすり眠れます。でも、問診票に薬はあまり使いたくないと書いてあったので、とりあえず一度だけにしましょう」  なんだか医者らしいことをいってみせる。 「来週また来てください」  女はしぶしぶ薬局で薬を受け取り、帰っていった。 (飲むかな)   カウンセラーは先程メモ用紙に書いた女の元彼の名前をを眺めた。飲んでもらわないとデータが得られないので困る。  あの薬は飲むと、こちらが文字で示した人物や物質や事柄を忘れていく。正真正銘の忘却薬だ。冗談などではない。元彼の名前をわざわざ書いたのは、女に暗示を掛けるためだった。 (必ず彼を忘れるさ)  カウンセラーの男は、地球から遠く離れた星から新薬の実験にやってきた研究者だった。   自分の星の人間で実験すると猛烈な批判を受けてしまうので、この手頃な地球という星で試すことになったわけだ。偽の医師免許と心理カウンセラーの肩書を適当に拵え、地球人で忘却の錠剤を試している。一年間はデータを蓄積するつもりだ。 ★  一週間後、女はスッキリした顔でやってきた。 「スマホ依存もビックリするくらい解消されました。何であんなにSNSを見ていたのわからなくて。どうして全く知らない女の子の写真ばかり見ていたのか、覚えていないんです」 「元彼のことは?」 「元彼って誰でしたっけ。スッカリ忘れることができました」 「そうですか。それはよかった」  女の元気な姿に、カウンセラーの男は満足げに微笑んだ。 ★  しかし、数ヶ月後、女は再びやってきた。 「もしかして、ぶり返した? 良くならなかったですか?」 思い出してしまったのか? 「いえ」  女は小さく首を振る。 「眠れるようになりました。スマホ依存も再発していません」 「それじゃあ、何故またここに?」 「……嫌われてしまう気がするんです」 「嫌われてしまう?」 「人といると、私は嫌われるって必ず思うんです」 「そんなの大丈夫。嫌われていいんですよ。みんなに好かれる人なんていてないから、嫌われることは気にしなくていいんです」 「いいえ!」  女は立ち上がった。 「みんなに好かれたいんじゃないんです!」  目には涙を浮かべている。 「みんなに好かれたいなんて、そんな贅沢なことは少しも思ったりしていません。好きな人に好かれたいんです。たった一人でもいいんです。でも。その好きな人に嫌われてしまうんです」 「実際に嫌われたんですか」 「ーーわかりません」  女は首を振る。 「でも、絶対なんです。私は選ばれない。好きな人は結局他の人を選ぶ。そう信じてしまうんです」  カウンセラーは頭を掻いた。元彼を忘れられても、失恋の痛みは消えないのか。 (失敗だ。この薬、まだまだだな)  PCに向かい、カウンセラーはまた処方箋を印刷した。 「もう一度。これを飲んで」  メモ用紙に大きな文字でカウンセリングルーム「コスモ」と書いた。  今度はこの女に我々のことを忘れてもらおう。 (まだまだデータを集めないとね)  
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