陽だまりの午後

6/9
前へ
/33ページ
次へ
 太陽は傾き始めてる。  「私、やっぱり行かない」  私は振り返り、道の反対側から来たバスに乗った。  今来た道を、もう一度下ろうと決心した。  キーちゃんは私の肩を掴んで、「待ちや!」って大声で言うけれど、そんなの知ったこっちゃない。  家に帰ろうと思った。  私の知っている静かな日常のなかに戻ろうと思った。  「あんた、それでええんか!?」  「そうやな」  語尾を強くする。  迷いなんかない。  明日の私が、今日の私を追い越そうとする。  そのスピードに轢かれて、影も残さないくらいに一日が重くのし掛かってくる。  その重さに耐えかねて、昨日までにあったものがなにもかも潰れてなくなってしまうくらいなら、いっそ全力で、その重力に逆らおうと思う。  昨日の世界に置いてきたものを、この手に握りしめておきたいと思う。  西宮病院が記された地図が、右手の中でクシャクシャになる。  スマホを開くとメールが来てた。  もうすぐ手術が終わる。  あんたはどこにいるんだってお母さんから。  私は返信しなかった。  友達の電話も出なかった。  バスを降りて電車に乗って、切符に記された「須磨」という文字。  西宮には30分もあれば行ける。  だけどそうしないのは、私と彼の距離が、もっと近くにあると信じたいから。  キーちゃんは私の裾を掴んで、まだ間に合うと言う。  何に?    私はもう間に合ってる。  何も間に合わないなんてことはない。  キーちゃんと私が一緒にいるってことは友達も知ってた。  だからキーちゃんの電話にも連絡が来てた。  私たちが何処にいるかって催促の電話が。  キーちゃんはそれに答えなかった。  代わりに私にそのことを伝えた。  亮平の容態が、あまり良くないってことも。  「心肺が弱っとるって」  「…そう」  「あんた、このまま家に帰るって言うけど、このまま会わずに、リョウが死んでもええんか!?」  黙る。  言葉は悪いかもしれないけれど、亮平はもう生きてない。  植物状態なんだ。  かろうじて、人工呼吸機と経管栄養で命を繋いでいるけれど、言葉を話すことも、目を開けることも、前にみたいに笑うこともない。  目を閉じてる。  ずっと、あの日から、同じ姿勢のまま、同じ呼吸器を付けて。
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加