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ぶん殴ってやるさ!…
思いっきり、ぶん殴ってやるさ!…
頭に血が上った私は、まっすぐに、リンに向かって、突撃した…
許せん!
許せんかった!…
一度ならず、二度までも、この矢田を馬鹿にするが如く、笑ったのが、許せんかったのだ…
私が、リンをぶん殴るべく、リンに向かって、走って行くと、その前に、なぜか、バニラが、立ち塞がった…
身長159㎝の矢田の前に、身長180㎝のバニラが、立ち塞がったのだ…
「…なんだ? …バニラ?…そこをどけば、いいさ…」
私は言った…
言ったのだ…
「…いいえ、どきません…」
「…なんだと? …どかないだと?…」
「…ハイ…どきません…」
「…なぜ、どかん?…」
「…お姉さん…今日は、葉敬が、久しぶりに来日したんです…騒動は…」
そう、言われると、私は、なにも、言えんかった…
何度も、言うように、この葉敬は、恩人…
この矢田と、葉尊の結婚を認めてくれた、恩人だからだ…
だから、葉敬の名前を出されると、なにも、言えんかった…
なにも、言い返せんかった…
また、バニラにしても、この場で、騒動を起こされては、たまったものでは、なかったのだろう…
なにしろ、このバニラは、葉敬の愛人…
今回、同行したマリアは、この葉敬と、バニラの間に産まれた子供…
葉敬とバニラは、父子ほど、歳が、離れているが、実質的な夫婦だからだ…
だから、事実上の夫の葉敬が、珍しく来日したのに、その葉敬の前で、騒動を起こすのは、このバニラにとっても、たまったものでは、なかったのだろう…
私は、思った…
私は、考えた…
「…わかったさ…」
私は、言って、矛を収めた…
このリンをぶん殴ることを、断念した…
「…今回は、勘弁してやるさ…」
私は、言った…
私は、言ったのだ…
ホントは、はらわたが煮えくり返っていたが、言ったのだ…
臥薪嘗胆…
耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだのだ…
この矢田トモコ…
常識のある女だった…
なにより、世間体を気にする女だった…
この空港で、騒動を起こせば、下手をすれば、週刊誌のネタになりかねない…
日本の総合電機メーカー、クールの社長夫人が、台湾のチアガールのリンをぶん殴った…
そんな記事が出かねない…
それを、思うと、とてもではないが、このリンをぶん殴ることなど、できるわけがなかった…
なかったのだ…
同時に、気付いた…
この矢田も、地位を得ているということを、だ…
クールの社長夫人という地位を得ていることを、だ…
正直、これまで、考えたことも、なかった…
自分の地位など、考えたことも、なかった…
なぜなら、私は、地位を得ても、なにも変わらないからだ…
例えば、このリンのように、台湾で、チアガールとして、有名になる…
そうなれば、どこに行っても、注目される…
あるいは、夫の葉尊のように、クールの社長になれば、会社に出社すれば、社長として、扱われる…
しかしながら、私には、それがない…
ハッキリ言えば、私が、葉尊と結婚したことによって、このリンダやバニラのような有名人と知り合い、知己を得た…
が、
それだけ…
それだけだ…
私自身が、どこかに、出かけて、なにかをするわけでも、なんでもない…
だから、正直、自分が地位を得たことを、実感したことは、これまでなかった…
なかったのだ…
しいて言えば、地位を得たことを、実感したのは、クールを訪れたときぐらい…
クールを訪れ、社長夫人として、扱われたときだけだ…
私は、それを、思った…
今さらながら、思った…
しかし、
しかし、だ…
なぜ、このリンは、この矢田と敵対する?
どうして、この矢田が、頭に来るようなことを、わざと、する…
それが、謎だった…
大きな謎だったのだ…
しかし、そんなことは、考えても、仕方がない…
悩んでも、仕方がなかった…
答えが出んからだ…
だから、悩んでも、仕方がなかった…
私は、ただ、黙って、葉敬一行の後について、ホテルに向かった…
結局、その後、葉敬一行は、日本の定宿のホテル、帝国ホテルに泊まった…
実は、この帝国ホテルは、この矢田にとって、実に、思い出深いホテルだった…
なにしろ、半年ちょっと前に、この矢田と葉尊が、結婚式を挙げたのが、この帝国ホテルだったのだ…
それを、思うと、感無量…
実に、思い出深かった…
あれから、実に、いろいろあった…
いや、
いろいろ、あり過ぎた(笑)…
それも、これも、わずか、半年ちょっと前に、葉尊と結婚してから、起こった出来事だった…
葉尊と結婚する前までは、この矢田は、実に平凡…
平凡だった…
平凡そのものの人生を歩んでいた…
具体的には、短大を卒業して、就職もせずに、バイトや派遣社員や、契約社員をして、生きてきた…
35歳まで、生きてきた…
短大を出て、就職しなかったのは、ただ単純に、就職氷河期だったからだ…
だから、自分の周りにも、就職しないで、短大を卒業した人間が、多かった…
いや、ハッキリ言えば、就職しないのではなく、就職できなかったのだ(涙)…
なにしろ、就職の間口が、狭すぎた…
バブルが崩壊して、ちっとも、景気が回復せず、日本中、どこの会社も、新卒の採用を絞った…
具体的には、それまで、毎年100人採用していた企業が、30人しか、採用しなかったり、中には、それどころか、採用を停止した企業も、いっぱいあった…
要するに、大学卒業度、入社する企業が、なくなったのだ…
採用枠が、突然、とんでもなく、狭まり、日本中、大学を卒業しても、就職できない若者が、珍しくなかった…
私は、その一人だった(涙)…
だから、私と同じ世代で、私のような境遇の者は、格別、珍しくもなんともなかった…
しかし、それが、半年前の葉尊との結婚を契機に一変した…
私が、35歳で、葉尊と結婚したから、
「…35歳のシンデレラ…」
と、世間で呼ばれ、その名称が、世間に定着した…
おおげさでなく、半年ちょっと前には、日本中、私を知らない者はいないほど、有名になった…
しかしながら、それは、一瞬…
一瞬だけ…
ものの三か月もしない間に、すっかり世間から、忘れ去られた…
まあ、世の中、そんなものだ(笑)…
日本で、まったく平凡な女が、台湾の大財閥の御曹司と結婚する…
まるで、現代のシンデレラだ…
だから、私を35歳のシンデレラと、呼んだのも、わかる…
また、今や日本は、晩婚…
女が、三十代での結婚も珍しくもなんともない…
だから、私が、35歳で、台湾の御曹司と結婚したのは、今や結婚が遅れた、日本の女たちに、夢を与えられると、思って、宣伝したのだ…
話題にしたのだ…
しかしながら、それは、一瞬…
一瞬だけ…
結婚してしまえば、それまで…
後の話題が続かない…
だから、ブームは、一瞬だけ…
私が、葉尊と結婚したときだけで、すぐに、そのブームは、終わった…
まるで、打ち上げ花火を、打ち上げたかのごとく、終わった…
終わったのだ…
まあ、今度、私が、話題になるとしたら、葉尊と離婚したときぐらいだろう(苦笑)…
しかしながら、仮に葉尊と離婚したとしても、葉尊と結婚したときのようなブームは、起きないだろう…
なぜなら、それは、世間に夢を与えないからだ…
むしろ、
やっぱり、平凡な家庭の女と、大金持ちの御曹司との結婚は、ダメだった…
うまくいかなかったと、世間に思われる…
しかし、それでは、世間に夢を与えられない…
だから、仮に、私が、葉尊と離婚したとしても、ブームには、ならない…
やっぱりダメだったと、世間に落胆を与えるだけだからだ(苦笑)…
私は、今、この帝国ホテルに、半年ぶりに、やってきて、今さらながら、それを、思い出した…
私と葉尊の結婚を思い出していた…
そして、私は、部屋の面子を見た…
ずばり、帝国ホテルの同じ部屋にいる、面子を見た…
葉敬、リンダ、バニラ、リンダの子供のマリア、そして、この矢田…
いつものメンバーだ…
ハッキリ言って、葉敬一族といっていい、メンバー…
それに、リンと、葉敬のボディーガード二人…
合計、9人…
空港のときに、葉敬と、共に、同行した他のメンバーは、他の部屋にいる…
なにしろ、同じ部屋に入るには、人数が、多過ぎるからだ…
葉敬は、20人を優に超える人間を従えて、この日本にやって来た…
が、
考えてみれば、それも当たり前なのかも、しれない…
なにしろ、この葉敬は、何度も言うように、台湾の大実業家…
台北筆頭の創業者…
もはや、教科書に載る、台湾では、有名な立志伝中の人物だからだ…
だから、そんな有名な人物が、日本にやって来るのに、一人きりというのは、考えられない…
普通は、これほどの大物ならば、ずらずらと、大勢の人物を、引き連れてくるものだからだ…
これは、おおげさに言えば、日本の首相が、他国を訪れるのと同じ…
日本の首相が、他国を訪れるのに、一人きりというのは、ありえない…
やはり、今回の葉敬のように、ずらずらと、大勢の人間を引き連れて、行くものだ…
その方が、威厳が出るし、目立つ…
そういうことだ…
もちろん、目立つだけでなく、同行する人間には、それぞれ、役目があるのかも、しれない…
いや、
役目がないはずが、ない…
しかし、それにしても、やはり、びっくりするほど、大勢の人間を引き連れて歩くものだ…
そして、それを、考えたとき、ふと、ある考えが、私の脳裏をよぎった…
よぎったのだ…
それは、ずばり、リンのことだった…
<続く>
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