リン 15

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 ぶん殴ってやるさ!…  思いっきり、ぶん殴ってやるさ!…  頭に血が上った私は、まっすぐに、リンに向かって、突撃した…  許せん!  許せんかった!…  一度ならず、二度までも、この矢田を馬鹿にするが如く、笑ったのが、許せんかったのだ…  私が、リンをぶん殴るべく、リンに向かって、走って行くと、その前に、なぜか、バニラが、立ち塞がった…  身長159㎝の矢田の前に、身長180㎝のバニラが、立ち塞がったのだ…  「…なんだ? …バニラ?…そこをどけば、いいさ…」  私は言った…  言ったのだ…  「…いいえ、どきません…」  「…なんだと? …どかないだと?…」  「…ハイ…どきません…」  「…なぜ、どかん?…」  「…お姉さん…今日は、葉敬が、久しぶりに来日したんです…騒動は…」  そう、言われると、私は、なにも、言えんかった…  何度も、言うように、この葉敬は、恩人…  この矢田と、葉尊の結婚を認めてくれた、恩人だからだ…  だから、葉敬の名前を出されると、なにも、言えんかった…  なにも、言い返せんかった…  また、バニラにしても、この場で、騒動を起こされては、たまったものでは、なかったのだろう…  なにしろ、このバニラは、葉敬の愛人…    今回、同行したマリアは、この葉敬と、バニラの間に産まれた子供…  葉敬とバニラは、父子ほど、歳が、離れているが、実質的な夫婦だからだ…  だから、事実上の夫の葉敬が、珍しく来日したのに、その葉敬の前で、騒動を起こすのは、このバニラにとっても、たまったものでは、なかったのだろう…  私は、思った…  私は、考えた…  「…わかったさ…」  私は、言って、矛を収めた…  このリンをぶん殴ることを、断念した…  「…今回は、勘弁してやるさ…」  私は、言った…  私は、言ったのだ…  ホントは、はらわたが煮えくり返っていたが、言ったのだ…  臥薪嘗胆…  耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだのだ…  この矢田トモコ…  常識のある女だった…  なにより、世間体を気にする女だった…  この空港で、騒動を起こせば、下手をすれば、週刊誌のネタになりかねない…  日本の総合電機メーカー、クールの社長夫人が、台湾のチアガールのリンをぶん殴った…  そんな記事が出かねない…  それを、思うと、とてもではないが、このリンをぶん殴ることなど、できるわけがなかった…  なかったのだ…  同時に、気付いた…  この矢田も、地位を得ているということを、だ…  クールの社長夫人という地位を得ていることを、だ…  正直、これまで、考えたことも、なかった…  自分の地位など、考えたことも、なかった…  なぜなら、私は、地位を得ても、なにも変わらないからだ…  例えば、このリンのように、台湾で、チアガールとして、有名になる…  そうなれば、どこに行っても、注目される…  あるいは、夫の葉尊のように、クールの社長になれば、会社に出社すれば、社長として、扱われる…  しかしながら、私には、それがない…  ハッキリ言えば、私が、葉尊と結婚したことによって、このリンダやバニラのような有名人と知り合い、知己を得た…  が、  それだけ…  それだけだ…  私自身が、どこかに、出かけて、なにかをするわけでも、なんでもない…  だから、正直、自分が地位を得たことを、実感したことは、これまでなかった…  なかったのだ…  しいて言えば、地位を得たことを、実感したのは、クールを訪れたときぐらい…  クールを訪れ、社長夫人として、扱われたときだけだ…  私は、それを、思った…  今さらながら、思った…  しかし、  しかし、だ…  なぜ、このリンは、この矢田と敵対する?  どうして、この矢田が、頭に来るようなことを、わざと、する…  それが、謎だった…  大きな謎だったのだ…  しかし、そんなことは、考えても、仕方がない…  悩んでも、仕方がなかった…  答えが出んからだ…  だから、悩んでも、仕方がなかった…  私は、ただ、黙って、葉敬一行の後について、ホテルに向かった…    結局、その後、葉敬一行は、日本の定宿のホテル、帝国ホテルに泊まった…  実は、この帝国ホテルは、この矢田にとって、実に、思い出深いホテルだった…  なにしろ、半年ちょっと前に、この矢田と葉尊が、結婚式を挙げたのが、この帝国ホテルだったのだ…  それを、思うと、感無量…  実に、思い出深かった…  あれから、実に、いろいろあった…  いや、  いろいろ、あり過ぎた(笑)…  それも、これも、わずか、半年ちょっと前に、葉尊と結婚してから、起こった出来事だった…  葉尊と結婚する前までは、この矢田は、実に平凡…  平凡だった…  平凡そのものの人生を歩んでいた…  具体的には、短大を卒業して、就職もせずに、バイトや派遣社員や、契約社員をして、生きてきた…  35歳まで、生きてきた…  短大を出て、就職しなかったのは、ただ単純に、就職氷河期だったからだ…  だから、自分の周りにも、就職しないで、短大を卒業した人間が、多かった…  いや、ハッキリ言えば、就職しないのではなく、就職できなかったのだ(涙)…  なにしろ、就職の間口が、狭すぎた…  バブルが崩壊して、ちっとも、景気が回復せず、日本中、どこの会社も、新卒の採用を絞った…  具体的には、それまで、毎年100人採用していた企業が、30人しか、採用しなかったり、中には、それどころか、採用を停止した企業も、いっぱいあった…  要するに、大学卒業度、入社する企業が、なくなったのだ…  採用枠が、突然、とんでもなく、狭まり、日本中、大学を卒業しても、就職できない若者が、珍しくなかった…  私は、その一人だった(涙)…  だから、私と同じ世代で、私のような境遇の者は、格別、珍しくもなんともなかった…  しかし、それが、半年前の葉尊との結婚を契機に一変した…  私が、35歳で、葉尊と結婚したから、  「…35歳のシンデレラ…」  と、世間で呼ばれ、その名称が、世間に定着した…  おおげさでなく、半年ちょっと前には、日本中、私を知らない者はいないほど、有名になった…  しかしながら、それは、一瞬…  一瞬だけ…  ものの三か月もしない間に、すっかり世間から、忘れ去られた…  まあ、世の中、そんなものだ(笑)…  日本で、まったく平凡な女が、台湾の大財閥の御曹司と結婚する…  まるで、現代のシンデレラだ…  だから、私を35歳のシンデレラと、呼んだのも、わかる…  また、今や日本は、晩婚…  女が、三十代での結婚も珍しくもなんともない…  だから、私が、35歳で、台湾の御曹司と結婚したのは、今や結婚が遅れた、日本の女たちに、夢を与えられると、思って、宣伝したのだ…  話題にしたのだ…  しかしながら、それは、一瞬…  一瞬だけ…  結婚してしまえば、それまで…  後の話題が続かない…  だから、ブームは、一瞬だけ…  私が、葉尊と結婚したときだけで、すぐに、そのブームは、終わった…  まるで、打ち上げ花火を、打ち上げたかのごとく、終わった…  終わったのだ…  まあ、今度、私が、話題になるとしたら、葉尊と離婚したときぐらいだろう(苦笑)…  しかしながら、仮に葉尊と離婚したとしても、葉尊と結婚したときのようなブームは、起きないだろう…  なぜなら、それは、世間に夢を与えないからだ…  むしろ、  やっぱり、平凡な家庭の女と、大金持ちの御曹司との結婚は、ダメだった…  うまくいかなかったと、世間に思われる…  しかし、それでは、世間に夢を与えられない…  だから、仮に、私が、葉尊と離婚したとしても、ブームには、ならない…  やっぱりダメだったと、世間に落胆を与えるだけだからだ(苦笑)…  私は、今、この帝国ホテルに、半年ぶりに、やってきて、今さらながら、それを、思い出した…  私と葉尊の結婚を思い出していた…  そして、私は、部屋の面子を見た…  ずばり、帝国ホテルの同じ部屋にいる、面子を見た…  葉敬、リンダ、バニラ、リンダの子供のマリア、そして、この矢田…  いつものメンバーだ…  ハッキリ言って、葉敬一族といっていい、メンバー…  それに、リンと、葉敬のボディーガード二人…  合計、9人…  空港のときに、葉敬と、共に、同行した他のメンバーは、他の部屋にいる…  なにしろ、同じ部屋に入るには、人数が、多過ぎるからだ…  葉敬は、20人を優に超える人間を従えて、この日本にやって来た…  が、  考えてみれば、それも当たり前なのかも、しれない…  なにしろ、この葉敬は、何度も言うように、台湾の大実業家…  台北筆頭の創業者…  もはや、教科書に載る、台湾では、有名な立志伝中の人物だからだ…  だから、そんな有名な人物が、日本にやって来るのに、一人きりというのは、考えられない…  普通は、これほどの大物ならば、ずらずらと、大勢の人物を、引き連れてくるものだからだ…  これは、おおげさに言えば、日本の首相が、他国を訪れるのと同じ…  日本の首相が、他国を訪れるのに、一人きりというのは、ありえない…  やはり、今回の葉敬のように、ずらずらと、大勢の人間を引き連れて、行くものだ…  その方が、威厳が出るし、目立つ…  そういうことだ…  もちろん、目立つだけでなく、同行する人間には、それぞれ、役目があるのかも、しれない…  いや、  役目がないはずが、ない…  しかし、それにしても、やはり、びっくりするほど、大勢の人間を引き連れて歩くものだ…  そして、それを、考えたとき、ふと、ある考えが、私の脳裏をよぎった…  よぎったのだ…  それは、ずばり、リンのことだった…                <続く>
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