<第一章-Ⅰ>朝支度

1/3
前へ
/26ページ
次へ

<第一章-Ⅰ>朝支度

「っ」  ジラソーレは閉ざされていた瞼を勢いよく開いた。どく、どくと心臓が激しく高鳴り、血液を全身に循環させている。  随分と懐かしい夢を見たものだと、体を起こしながらべたついた首筋に触れた。メディチ侯爵に買われたのは約六年前のことである。齢十四歳だったジラソーレも二十歳となり、今では身長も伸びてメディチ侯爵を優に越してしまった。  ベッドから足を下ろして、ジラソーレは周囲を見回す。部屋として利用している移動式テントは濃い緑色をしており、目に優しく飛び込んでくる。正方形の形をした室内には乱雑に物が散乱しており、宝箱の形を催した衣装箱には宝石と衣装が押しつぶされていた。テントの片隅に寄せられたベッドの向かい側には、踊り子であった女性から譲り受けたお下がりの鏡台が鎮座している。  メディチ侯爵から奴隷として買われたジラソーレは、サーカス団『フィエスタ』へと入団させられた。特に芸もなく、器量の良い方でもないジラソーレに、踊り子仲間はとても苦労していたようだった。時にはメディチ侯爵に直談判した人間もいたようだが、どうにかしろと傍若無人に跳ね返されたらしい。  紆余曲折あったが、今では世にも珍しい男踊り子ということで、レギュラーメンバーとしての地位を確立している。貴族と結婚した、本来の鏡台の持ち主も、最後には優しくジラソーレの頭を撫でてくれていた。  ジラソーレは短靴を履いて立ち上がると、静かに鏡台へと近づく。鏡を覆い隠していた布を捲ると、栗色の髪が自由自在に跳ねている少年―――ジラソーレ自身が映り込んだ。  ゆら、ゆらと美味しそうな蜂蜜色の瞳が揺れている。北出身には珍しい浅黒い肌が、テントの隙間から差し込む光を鈍く反射していた。 「っ、っ」  口を開いて腹に力を入れるが、声は出ない。口を間抜けに開いたジラソーレ自身が鏡に映り込むだけである―――隙間から覗く舌には刻印があり、二体の蛇がお互いに尾を噛み合って円を作り出していた。中央には奇妙な文様が刻まれている。  いつ刻まれたか記憶がない―――いつの間にか刻まれていたそれがひどく不吉で仕方ない。 「お、起きてたか」  テントの入り口が開いた固い布の音と共に、低い掠れた声が響いた。ジラソーレは緩慢な動きで視線を向ける。  背後の太陽の光をたくさん取り込んだ黒髪が肩まで緩やかなウェーブを描いて伸びており、風で靡いていた。南出身にしては珍しい白い肌がてらてらと日光に反射して眩しい。  彫りの深い顔を綻ばせた彼―――猛獣使い・ダフネは、ジラソーレに近づいた。ざり、ざりと土が擦れる音がテント内に満ちる。 「おはよう、ジラソーレ」  慈愛を込めた手が、ゆっくりと男らしくジラソーレの栗色の頭を撫でた。 『お は よ う』  視線を上げながら、彼に伝わるように口を動かす。ダフネは満足したように柔和な笑みを浮かべた。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加