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3話 猛勉強の裏側で
語学が堪能なレグロは、ソートレル語もフォルミーカ語も、だいたい習得していた。
婚約者となったオリビアも、フォルミーカ語を勉強中で、しかもなかなか覚えがいい。
(これは断然、僕らが有利だな。兄上には申し訳ないが、婚約者が決まったと同時に、王太子の座も決まったようなものだ)
レグロは、謁見の間での出来事を振り返る。
あの日は突然、側近のブラスから、レグロたちの婚約者が決まると知らされた。
さらには、その婚約者と一緒に協力し、王太子を選定する試験を受けるのだとも。
レグロにとっては青天の霹靂だった。
王太子になるのは自分だと、信じて疑っていなかったからだ。
(だが、ふたを開けてみれば何のことはない。僕を正式に王太子にするための、お膳立てが整っていたというわけだ)
公正な試験のもと、レグロが選ばれたと分かれば、反対意見も押さえやすい。
そしてマリーン公爵家という強力な後ろ盾を持つ令嬢が、婚約者になるのもありがたかった。
これでレグロの王太子としての地位は盤石だ。
ゆくゆくは国王となり、この国の頂点に立つ未来が、約束されたも同然だった。
(しかし……兄上の婚約者は何だったのだろう? あれもオリビアと同じ、マリーン公爵家の令嬢なのだよな? それにしては両親のどちらとも似ていないし、体は痩せこけてドレスも古びていた。オリビアとは対照的に見えたが……)
レグロは自分の婚約者となった、美しいオリビアを思い出す。
流れるような金髪に若葉色の瞳、ちょこんとしたサクランボのような唇と白い頬、淡い水色のドレスが純情さをひときわ引き立てていた。
背は小柄ながらも胸はすでに大人並みに豊かで、レグロの好みをそのまま体現していたオリビアに、あの場でレグロは視線が吸い寄せられ一目惚れした。
オリビアもまた、レグロをうっとりとした目で見ていたので、お互いの気持ちなど確かめなくても分かった。
(僕に相応しい婚約者だ。可憐で賢く、震いつきたくなる体つき。ああ、オリビア、今すぐにでも会いたい)
あれからオリビアは毎日、マリーン公爵の雇った家庭教師から、ソートレル語とフォルミーカ語を習っているという。
ときどき、進捗状況を確かめ合うために、王城にレグロを訪ねてくるときにしか、ふたりには逢瀬の機会がなかった。
(そう言えば、兄上の婚約者は王城に部屋を賜り、ずっと滞在しているという。うらやましい限りだ。出来が悪いからだと聞いたが……オリビアには、そんな理由は当てはまらないし、どうにかできないか)
なんとかして、もっとオリビアと一緒の時間を工面したいレグロは、頭を悩ませた。
早くオリビアと仲良くなりたい。
今はまだ、手を握るだけの関係なのが、もどかしい。
と言うのも、レグロの友人たちはもっと幼い頃から婚約者がいて、とっくの昔にキスを済ませているという。
レグロだけが、未経験だったのだ。
(僕の最初のキスは、その辺の女ではなく、極上のレディに贈りたいと思っていた。まさしくオリビアのような素敵な婚約者に)
レグロはぺろりと唇を舌で舐めた。
(オリビアの唇に吸いつくのを想像しただけで、滾ってくるな。彼女は体も素晴らしかった。いつかその体も、僕のものに……)
レグロは下半身へ手を伸ばすと、宥めるようにそこを撫でた。
(まだオリビアは15歳だ。せめてもう少し大人になってから体の関係を始めよう)
キスすらしていないというのに、レグロの頭の中ではすでに、未来のオリビアのドレスを脱がす妄想が始まる。
宥めていたはずのものが、さらに硬くなってしまい、レグロは行儀悪く舌打ちをした。
(まさか兄上に、先を越されたりはしないよな?)
ノエミの部屋へよく通っているらしいアマンドを、レグロは疑った。
しかし、すぐにその考えを否定する。
(あんな痩せぎすの女じゃ、食指も動かないか。胸だって、城壁のようだった)
ぷっとレグロは噴き出して笑う。
自分で思いついた例えが、はまり過ぎたのだ。
(ああ、可笑しい。兄上は将来、国王にはなれないし、城壁を娶るしかないし、散々だな。僕と同時に腹に宿ってしまったばかりに――これも双子の宿命というやつか)
レグロとアマンドは、その地位の高さもあって、どうしても注目を集めた。
一瞬だけ先に生まれたせいで、兄としての振る舞いを求められた悲運のアマンドには同情しかない。
兄らしくできなくて失望されるアマンドと違い、少しでもできると褒められた弟のレグロは幸運だった。
その差は年を重ねるごとに大きくなり、自己肯定感の塊となったレグロは、ますます自信をもって多くのことに取り組んだ。
アマンドを差し置いて外交にも積極的に参加したし、社交界へも早々にデビューを果たして数多の人脈づくりに成功した。
(僕と兄上は、太陽と月なんだ。兄上は僕の栄光の影で、薄らぼんやりしていればいい)
三年後か、と呟いた。
そのときに、レグロとアマンドの将来は、決定的に分かたれる。
(きっと兄上も、僕の側にいない方が、幸せになれるさ。あのおかしな婚約者と一緒に、地味な家庭を築くがいい)
それからレグロは、どんなシチュエーションでオリビアと初めてのキスをしようか、その計画を練るのに忙しくなる。
ここぞと優秀な頭脳をつかって、悪友たちからのアドバイスをもらい、オリビアが喜ぶ言葉をたっぷり浴びせ、ふたりがキスをしたのは半年後のことだった。
◇◆◇◆
「レグロさま……なんて素敵なんでしょう」
オリビアがレグロに恋をしたのは、あの謁見の間での出来事があった日よりも、実はかなり前だ。
マリーン公爵家の令嬢として社交界へデビューをした年、オリビアはとある茶会でレグロを見かけた。
さらさらの黒髪を優雅に後ろへ流し、国王と同じ金の瞳が鋭く光っている。
そんなレグロに見とれている令嬢はオリビアだけではない。
まだ婚約者が決まっていないレグロには、多くの年頃の令嬢が取り巻き、輪を成していた。
「あの輪の中に入っていく勇気が、私には無いわ。こうして遠くから、レグロさまを眺めるしかないのね」
しょんぼりして茶会から帰ってきたオリビアを、パメラが心配する。
ぽつりぽつりと零す話を聞くうちに、オリビアがレグロに恋をしたと知って、マリーン公爵はすぐに王家へ打診をした。
レグロの婚約者として、オリビアを推挙するためだ。
しかし王家からの返事は渋いものだった。
いわく、王太子を双子の王子のどちらにするのか決めかねているので、婚約者については当分未定であると。
「迷うところじゃないだろう!? どう見ても、弟王子のレグロさまが適任だ。ぼうっとしている兄王子なんかに、執政ができるはずがない」
立腹しながらも、マリーン公爵はしぶとく交渉を続けた。
可愛いオリビアの初恋を、叶えてやりたかったからだ。
そしてノエミの使い道を見出す。
『双子の王子のどちらにも、婚約者として娘を差し出すので、改めて考え直してくれないか』
王太子になろうがなるまいが、まとめてマリーン公爵家が後ろ盾になる。
そうマリーン公爵が書いた手紙の文面に、側近のブラスが興味を示した。
そしてようやく、オリビアがレグロの婚約者になれたのだ。
「お父さま、ありがとう。私、とても嬉しいわ」
頬を染めてレグロの隣に立つオリビアは、親の贔屓目なしでも愛らしかった。
レグロもオリビアを気に入ったようだし、マリーン公爵は高笑いが止まらない。
(思惑通りだ。オリビアが王妃になれば、マリーン公爵家の権威は否応にも高まる。そしてノエミが生んだ子を次期マリーン公爵にして、王家の尊い血を後代に引き継ぐのだ)
どう転んでもマリーン公爵家にとっては吉と出る。
しかし、そんな歯車が狂いだすのは、いつも些細なことからなのだ。
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