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10.ジュリエッタの過去
ペンを置き、首を左右に倒した。ポキポキと小気味よい音が鳴る。
パーティの日以来、宿舎へ来るのは今日が初めてだった。
会場で出会ったジュリエッタのことを思い出す。物腰やわらかなクライドが、あんなに嫌悪感を示すのを見るのは初めてだった。私よりおそらく10歳は若く、見目麗しい令嬢。後ろで別の令嬢が付き従っていたのを見ると、位も高いのだろうと予測がついた。
顔を歪ませ、唾をまき散らし、神経質な小型犬みたいにきゃんきゃんと喚きながら、暴言を浴びせてきたジュリエッタ。その姿が昔の自分と重なり、唇から静かに息を吐いた。
プライドが高い相手を黙らせたいなら、何も反応しないことが正解だ。反応があるからこそ、相手はつけあがり、調子にのっていく。ゴーシュも同じタイプだった。
案の定、笑みを浮かべて何も言い返さずにいたら立ち去ってくれた。
ちらりとクライドを見る。集中しているのか何か呟きながらペンを走らせている。
帰りの馬車で、彼はきっと過去を話そうとしてくれていた。しかし悲痛な表情を浮かべる彼が痛々しく、気づけば自分の手を彼の手に重ねて、首を振っていた。
耐えがたい過去を話すのは、きっと、ひどくエネルギーがいるものだ。クライドの過去に興味がないわけではないが、苦手なパーティが終わったあとに、そんな酷なことを彼にさせたくはなかった。
私はもう一度集中しようとペンを握りしめたとき、突然、ドアが勢いよく開いた。びくりと体を震わす。
ずんずんと大股で歩くアナベルの後ろから、サリオンが慌ててついてくる。何事かと見開くクライドに、彼女は大声で叫んだ。
「オジさま! 前妻が突撃してきたって本当ですか?!」
「……どこで知ったんだ」
「パーティに参加していた第一騎士団の方の息子の友人の友人から!」
「……はぁ」
クライドはため息をつき、じとりとした目で睨んだ。「お前には関係ない」と言わんばかりの目線だった。
しかしアナベルも一歩も引かない。両者のにらみ合いが続く。
仲裁に入ったのはサリオンだった。
「その、アナベル。落ち着いて」
「だってオジさまったら、言われっぱなしだったと聞いたわ!」
「反論したところで建設的な議論はできないだろう?」
「そういう問題じゃない!」
机を両手でバン!と強く叩いた。
にらみ合う2人と、あわあわと近くで慌てるサリオン。
アナベルは机から手を離し、指で額を押さえた。
「ちなみにエレオノーラ様には離縁の理由などは説明したのですか?」
「……」
「話していないんですか?」
「あ、アナベルさん、クライド様にも事情がありますし」
私は立ち上がり、落ち着かせるように、アナベルに声をかけた。
瞬間、彼女の大きな瞳からぽろぽろと涙があふれる。服の裾で乱暴に目をこすりながら、涙声で訴えた。
「大切なオジさまが、そんな風に傷つけられて、しかも誤解されるような言い方をされて、許せ、ません」
「う~~~っ」とうなり声をあげたあと、わっと堰を切ったように泣き出した。
しばらく部屋にはアナベルの泣き声が響き、私の心臓はきゅっと痛んだ。大声で泣きわめく彼女は、普段の姿からは想像できなかった。素直で明るい性格だが、無鉄砲ではない。相手に対する配慮があり、心地よいコミュニケーションを自然とできる聡明な子だ。
しかし慕っている叔父が不用意に傷つけられたこと。彼女にとって子どものように泣き出すほど耐えがたかったのだろう。アナベルの立場になって考えると、何も言えなくなってしまった。
クライドは立ち上がり、アナベルのそばへ行き、ハンカチを差し出した。
「すまない」
「うっ、ふぇ……」
「……話すから、どうか泣き止んでおくれ」
眉毛を八の字にして困り果てた顔で言う。
するとアナベルはハンカチを取り、けたたましい音を立てながら鼻をかんだ。
クライドは彼女の両肩に触れ、そっと椅子に座らせた。倣うように私とサリオンも座る。
アナベルの嗚咽が収まった頃、席に戻ったクライドは「そんな愉快な話じゃないよ」と口を開いた。真っ赤な目をしたアナベルは頷く。
「私に縁談を持ちかけたのは、ジュリエッタの父親であるザロモン・ロートベルクだった」
「ロートベルク伯爵……あの大商人の……」
「あぁ。ただ彼の娘とは歳が離れていたし、相手の素性も知らなかった。はじめは断ったんだ。しかし……」
クライドの顔がこわばった。彼らしくない表情に部屋に一瞬だけ緊張が走る。
「『フライドの増税を検討している』とザロモンは言った」
「フライド……王都近くにある街ですね」
「えぇ。王都に働きに出ている者がほとんどで、王都に住むほどの経済的余裕がない民が主に暮らしています」
「そこの増税となると……」
「ただでさえ余裕がないのに、さらに貧困にあえぐ結果になります」
「でも治めているのは別の貴族でしょう? そんな一存で……」
アナベルは信じがたいという顔で呟いた。クライドは泣き笑いのような表情を浮かべた。
「できてしまうんだよ。治めているのは別の貴族でも、その貴族を裏で操っているのは別の人物だったりする。ジュリエッタの父は、綿取引に関する大商人。さぞかし人脈が広かっただろうさ。
増税でなくても、綿の値段が引き上がれば、一番困るのは民たちだ。自分には拒否権がないと悟ったよ」
「……そんなやり方」
「政略結婚なんて、大半の貴族がしていることだし構わなかった。まさか剣を振るっているだけの名ばかりの子爵である自分がするとは思わなかったけども」
「家は兄が継いでるしね」と苦笑する。私は浮かんだ疑問をぶつける。
「ジュリエッタ様は何故クライド様を……?」
「彼女が言うには『一目惚れ』だと」
「「「一目惚れ」」」
3人の言葉が重なった。
重々しい空気には似つかわない口調に、クライドは少しだけ笑った。
「街中の警護をしている自分に惚れたそうだよ」
「まぁ……」
「そして父親に『何としてでも結婚したい』と掛け合ったそうで。かわいい娘のためならと、取引のカードを持って私に打診した」
3人は絶句した。
娘のワガママのためなら民が貧困にあえぐことだって構わない。非人道的行為が、軽々しく行われているのが恐ろしかった。
「さぞかし甘やかされて育てられたのだろうとは思っていたが、想像以上だった。散財、使用人への暴言など目に余る行為の数々。使用人にはしばらく暮らしていけるだけの金を渡して一時解雇し、自分はだんだん家に寄りつかなくなっていった。すると彼女の行動もだんだんエスカレートしてね」
「エスカレート?」
「夜な夜な男性と遊びはじめ、ロートベルク家の人脈を使って自分への根も葉もない噂を流しはじめた。仕事がしづらかったなぁ……」
遠い目をして呟くクライド。
「まぁそんな感じでこじれにこじれて、最終的に離縁を言い放たれたわけだ。ジュリエッタが言った『捨てられた騎士団長』というのはあながち間違いじゃない。自分から離縁は言い出せなかったからね」
「……オジさまが結婚したくない理由が、そんな最っ低な女のせいだったなんて……」
アナベルは顔を真っ赤にして怒りの声をあげた。
「仕返ししましょう! こてんぱんに!」
「そんなことをしても意味がないだろう?」
呆れながら言うクライドに、アナベルは歯を見せて「きーっ!」と悔しがる。
「この話はこれでおしまいだ」「ほら、顔を洗っておいで」とクライドが優しく言えば、サリオンは立ち上がり「行こう」と彼女を促した。アナベルはまだ納得していない表情を浮かべていたが、こくりと頷き、2人は部屋から出て行った。
クライドと2人きりになり、彼は後頭部をかきながら気まずそうに笑った。
「すみません、不愉快な話を」
「いえ……」
まぶたを伏せて、馬車の中のクライドを思い出す。
体の一部が斬りつけられたのかと思うくらい痛々しい表情。
そしてジュリエッタについて話す彼の表情。
話の途中から抱いていたのはーー違和感だった。この違和をぶつけてしまっていいのかと、私は悩んでいた。言わなくていいと脳内では忠告されているのに、気づけば口から言葉が滑り出てしまう。
「……あの、クライド様」
「はい」
「先ほどのお話……」
「ジュリエッタのことですか?」
「はい」
私は一度、深呼吸をして彼の目を見る。
「クライド様が結婚されない理由は、別の理由があるのではないですか?」
彼の瞳が大きく見開いた。
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