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「……大丈夫ですか?」
急に声をかけられ、私は書類から顔をあげた。
第二騎士団の宿舎へ来るのは今日で3回目だった。何もせずにいるのは忍びないので、事務仕事の手伝いを申し出たのだ。代わりに防衛力強化に関する技術を教えてもらうことになっている。
「脳みそまで筋肉の奴ばかりなので、大変助かります」とクライドは頭を下げた。その切実な口調に、やはり人手が足りてないのかもしれないと察した。
ネイビーの瞳に尋ねるように目線を合わせれば、心配そうな声色で言う。
「何だか疲れているようなので」
ぎくりと体が凍った。
昨夜見た夢を思い出す。
ひどい夢だった。ゴーシュを受け入れ、もう一度やり直そうと決意した日のこと。
あの日がなければ今の自分も、おそらくサリオンもいない。人生の分岐点となった日。
あの日は必要だったのだ。自身の罪を認め、前に進むためには。
ーー長い時間をかけて絞り出した結論だった。
それでもあの日を思い出すと、汚れた油を無理やり飲まされたような、どろりとした感情が臓腑の奥で淀む。
ゴーシュが死んでから、私は悪夢に連日うなされていた。『お前の罪を忘れるな』と言われているような気がした。
顔が一瞬こわばったのを見逃さなかったのだろう。
クライドは「少し休憩しましょう」と微笑み、入り口近くの棚に置いてあった水差しからコップに水を注いだ。
礼を言い受け取ると、ふわりとレモンの香りが漂った。
「気づきました? 水にレモンを浮かべると、さっぱりしていいとアナベルが教えてくれたんです」
ほのかな酸味が、体の疲労を癒してくれるような気がした。
私の向かいの椅子に座り、クライドも水を嚥下した。そして「大丈夫ですか?」と再度問われる。不思議な人だと私は思う。全てを喋って、頼ってしまいたくなるような気持ちになる。
「最近、悪い夢を見ることが多くて」
「悪い夢……」
「過去の失敗や後悔、そういったものを煮詰めたような、夢です」
濁して答えたが、「あぁ」とクライドは合点言ったように頷いた。
予想外の答えに目を丸くすれば、「よく分かります」と彼はまつ毛を伏せながら言った。
「クライド様もそういう夢を?」
「長いこと生きていると、悔いばかりが残りますね」
「……そうですね」
私はコップの淵に目線を落とした。
すると彼は立ち上がり、仕事机の方へと歩いていった。そして引き出しをゴソゴソと漁りながら、「あぁ、あった」と独り言のように呟き、再び目の前にやってくる。
「よかったら、こちらを」
彼の手にあったのは、白い紐で繋がれた真鍮の鈴だった。
「鈴?」
「えぇ、西側の国に『枕元に鈴を置くと悪い夢を見なくなる』というおまじないがあって。藁にもすがる思いで買ったんすよ」
「効果はあったのですか?」
「えぇ。子供騙しかと思っていましたが」
鈴を手渡される。チリリ、と手のひらの上で鈴が鳴った。
「でもよろしいのですか? そんな大切なものを」
「もう使っていないので」
クライドは唇に弧を描いた。その笑みに心がほぐれていくのを感じながら、「ありがとうございます」と礼を述べた。
「あなたが、もう怖い夢を見ませんように」
やさしい声だった。
こんな自分には身に余る言葉で、思わず涙が出てしまいそうだった。
少しだけ開かれた窓の外を見る。昼間の太陽の光を浴びて、木々が嬉しそうに輝いていた。
*
夜、私はベッドの上で本を読んでいた。
眠気はあるが、眠ってしまえば悪夢を見るかもしれない。体をじわりじわりと蝕むような葛藤が支配していた。
目の前が霞んでいくのを感じ、眠気が限界を迎える。本を閉じ、目を擦りながら、チェストの上に載せる。そして真鍮の鈴を手に取った。
紐を持って揺らせば、チリリと、透き通った音ではなく、どこか鈍い音が響いた。
『長いこと生きていると、悔いばかりが残りますね』
寂しげに呟いた声が蘇る。
(クライド様でも、後悔することがあるのね)
まだ3回しか宿舎へは行っていないが、会うたびに魅力的な方だと実感した。
男らしい体つきと鋭い目つきで、はじめは威圧感を抱くこともあったが、冗談めかした発言や朗らかに笑う様子など茶目っ気ある部分も垣間見える。一度、離縁したことがあるとアナベルから聞いていた。おそらく結婚する前も、離縁した今も、たくさんの人に言い寄られているだろうと容易に想像ができた。
事務作業をしながら交わした会話を思い出す。
40近くになると体力や身体能力の衰えを理由に、ほとんどの騎士が辞めてしまうらしい。騎士団に所属していた経歴を活かし、貴族の屋敷の警護など、安全な仕事に移るそうだ。中には騎士団での働きを認められ、貴族籍を授与され、悠々自適に暮らす人もいるらしい。
そんな状況の中でもクライドは未だ騎士団長として働いていた。
「騎士団長という名前自体は華やかですが、面倒なことも多くあって」
第一騎士団からは「野蛮な奴ら」と皮肉をぶつけられ、民からは警備が手薄じゃないのかと苦情が入る。若いとそれだけ人脈もなく、やっかみを受けることも多いそうだ。過去には心労で辞職してしまった例もあるらしい。
「戦闘のストレスと、人間関係のストレスは種類が違いますから。若い騎士がつぶされるくらいなら、自分が傘になればいい」
年齢を理由に、前線にはもう出ておらず、裏方に徹しているそうだ。「個人の得意分野にあわせて班を決めたり、他国のノウハウを導入することで、効率的に守ることもできますから」と彼は微笑んだ。
身体的に貢献はできない。ならば代わりに、裏方の部分で彼らを支えたい。
そう語る彼の決意を見て、私も領主として精一杯できることをやろうと勇気づけられた。
そんな彼の抱く後悔は、どんなものなのだろう。
一瞬だけ思案してやめた。自分のどろりとした醜い過去が蘇ってしまったからだ。
鈴を枕元に置き、ランプを消し、布団に潜る。
『あなたが、もう怖い夢を見ませんように』
ふわりと煙のように漂うクライドの声を抱きしめる。
襲ってくる恐怖の中で、彼の声だけが暖かい一筋の光のように輝いていた。
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