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一、岸本屋店主彦左衛門の訴え
そんな正太郎に奇妙なことが起き始めたのは、いつの頃からだろうか。
いつものように吟味詰まり口書を作成していると、何やら不気味な雑音が聞こえてくるではないか。
耳が不自由なのだから、聞こえるというのは実に奇妙な話。最初のうちは音が上手く聞き取れず、虫が耳元で飛び回るようにうるさく感じた。
すわ、新しい病にでもかかったのではないかと、正直なところ不安になった。ところが、徐々に雑音が形を露わにしていくであった。
やがて、虫の音が人の話し声に変わっていき、今ではしかと正太郎の耳にその声が届いている。
――いや、違います。殺したのはそいつじゃあございません、旦那。
低くて落ち着きのある高齢の男の声が耳元で訴える。だが、どうもその声は正太郎にしか聞こえないらしい。
周囲をきょろきょろと見回しても、誰一人として気づいていないようだ。
どうしたものかと悩んではみたが、話しかけてくる声を無視できない。
深く息を吸い、吐いてはまた吸って、気持ちを落ち着かせる。そして、周囲に誰もいなくなってから、意を決し正太郎はそっと声をかけてみる。
「ち、違うとは、どういう意味であろうか?」
手前の声も聞こえないわけだから、この音量が的確かどうかはわからない。だが、両親から窘められた日々を思い出し、そっと手を喉に当てる。
良し、これなら大丈夫。喉に負担が少ないから、大きな声を出しているわけではなさそうだ。
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