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時は享保、八代目将軍徳川吉宗が世を治めていた頃。江戸の町では一人の若者が、我が身を憂い途方に暮れていた。若者の名は貞永正太郎。
吟味方与力・貞永平一郎の一人息子で、南町奉行所に仕えている身の上だ。
本来ならば与力、同心は抱席といって、一代限りの役職のはずだった。ところが、いつの間にやら世襲制になっていた。特に専門的な知識を求められる吟味方は、世襲が暗黙の了解になっている。
それゆえ、早くから見習いとして仕え、父親と同じ職務に勤め上げていくのが常だった。もちろん、貞永家も然りと言いたいところだが、肝心の正太郎には越えられぬ大きな壁があった。
それは無足見習として使え始めた十四歳の秋――お多福風邪にかかった正太郎は数日にわたり高熱が続いた。
父の平一郎も母の八重も一人息子の命を救うため、高名な医者に診せたり、最後は神頼みをしたりして根気強く看病し続けた。
そのお陰か正太郎は一命を取り留めたものの、その代り残酷な仕打ちが待っていた。なんと突如として両耳の聴覚を失ってしまったのだ。
これは現在でいうところのムンプス難聴、お多福風邪の後遺症であろうか。生まれつきでないぶん不自由も多く、周囲の反応も様々なものだった。
正太郎は利発で剣の腕も立ち、見ることも喋ることもできる。ただ、今まで聞こえたものが、何ひとつ聞こえないだけ。
とはいえ、聞こえないとは実に不自由なもの。突然、前ぶれもなく音のない静寂の中に放り出されたのだ。
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