南町奉行所お耳役貞永正太郎の捕物帳

2/6
前へ
/177ページ
次へ
 いくら素直で穏やかな性分の正太郎とて、己の不幸を嘆き悲しみ自暴自棄になりそうだった。現に熱が下がってもふさぎ込み、布団から出てこない日が続いた。 「どうか私のことは放っておいてください。お願いします、母上」  そう訴えたところで、そうは問屋が卸さない。 「貞永の家に生まれたのが運命なら、耳が聞こえなくなったのもまた運命です。私の息子ならば強くなりなさい、正太郎」 「せ、殺生な……母上には仏心というものはないのでしょうか?」 「何とでもおっしゃいなさい。母はあなたのためなら、鬼にでも閻魔様にでもなる覚悟でいます」  息子の行く末を案じた八重があれこれと世話を焼き、正太郎を孤立させないよう奮闘したのだ。  先ず唇の動きで相手の話しを察知する、いわゆる読唇術を習わせた。  血の滲むような努力の甲斐もあり、ある程度習得できたものの心許ない。それゆえ、間違いを避けるため筆談で意思疎通を図るよう、今度は書の練習に明け暮れた。  日々の暮らしの中で、己の声さえ聞こえない。だから、時には必要以上に大きな声を出してしまうこともあった。 「正太郎、喉に手を当てろ。声が大きいと喉が震えるだろう?」  そんな時は容赦なく父母の制止が入り、襟を正すことが幾度となくあった。 「は、はい、わかりました」  正太郎が腐ることなく、運命を素直に受け入れたのが、功を奏したのかもしれない。  といえば聞こえが良いが、変化に慣れるのが精いっぱいで、腐っている暇なんぞなかっただけだった。  そして、日常生活を送るには何不自由ないまでに成長した。ただ、吟味方与力としての将来だけが閉ざされたままで……
/177ページ

最初のコメントを投稿しよう!

25人が本棚に入れています
本棚に追加