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いくら素直で穏やかな性分の正太郎とて、己の不幸を嘆き悲しみ自暴自棄になりそうだった。現に熱が下がってもふさぎ込み、布団から出てこない日が続いた。
「どうか私のことは放っておいてください。お願いします、母上」
そう訴えたところで、そうは問屋が卸さない。
「貞永の家に生まれたのが運命なら、耳が聞こえなくなったのもまた運命です。私の息子ならば強くなりなさい、正太郎」
「せ、殺生な……母上には仏心というものはないのでしょうか?」
「何とでもおっしゃいなさい。母はあなたのためなら、鬼にでも閻魔様にでもなる覚悟でいます」
息子の行く末を案じた八重があれこれと世話を焼き、正太郎を孤立させないよう奮闘したのだ。
先ず唇の動きで相手の話しを察知する、いわゆる読唇術を習わせた。
血の滲むような努力の甲斐もあり、ある程度習得できたものの心許ない。それゆえ、間違いを避けるため筆談で意思疎通を図るよう、今度は書の練習に明け暮れた。
日々の暮らしの中で、己の声さえ聞こえない。だから、時には必要以上に大きな声を出してしまうこともあった。
「正太郎、喉に手を当てろ。声が大きいと喉が震えるだろう?」
そんな時は容赦なく父母の制止が入り、襟を正すことが幾度となくあった。
「は、はい、わかりました」
正太郎が腐ることなく、運命を素直に受け入れたのが、功を奏したのかもしれない。
といえば聞こえが良いが、変化に慣れるのが精いっぱいで、腐っている暇なんぞなかっただけだった。
そして、日常生活を送るには何不自由ないまでに成長した。ただ、吟味方与力としての将来だけが閉ざされたままで……
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