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薄い色の口紅が塗られた亜美花さんの唇が、笑みの形を保ったまま少し震えた。
「いつも、康一の一番は、康介くんだったよ。いつも。」
私が嫉妬しちゃうくらい、と、亜美花さんは冗談交じりの口調で言った。でも、その言葉は冗談ではなかったと思う。表情や、声音や、そんなものたちが、彼女の本気を隠しきれていなかった。俺は、彼女の本気から逃げるみたいに、首を横に振った。兄貴からそんなふうに思われていたとは、到底思えなくて。だって、兄貴は俺を微妙に避けていた。会話のほとんどないあの家の中で。そして、最終的には出て行ったのだ。俺を置いて。
「どうしたの? 康一が、女でも作った?」
浮気だって思って、私に電話してくれたの、と、亜美花さんが小さく首を傾げる。短い黒髪が揺れて、喫茶店の白い照明をきれいに反射した。
俺は、悩んだ。悩んでいる間、亜美花さんは俺をせかすようなことをせず、届いたアイスティを静かに啜っていた。いつも、このひとはこんなふうだったな、と思う。俺はあまり口数が多い方ではないし、誰かに自分の気持ちを話すという機会もそうなかったから、亜美花さんの前には口ごもっていることが多かった。それでも、彼女はいつも、俺をせかしたりはしないでいてくれて、俺はそのことに安堵していた。そのことを思い出すと、俺の唇は勝手にほどけて、言葉を生み出していた。
「おとこ、なんです。」
「男?」
「ヒモって、言ってました。」
しかも兄貴、売春してるらしいし。
ぼろぼろと零れ落ちた言葉を、亜美花さんは真面目な顔で受け止めてくれた。意味が分からない言葉たちだっただろうし、混乱もしていたと思う。それでも、ただ真面目な、いつも俺の話を聞いてくれるときの顔で。
「……つまり康一は、売春して男を養ってるってこと?」
短い沈黙の後、亜美花さんは慎重にその言葉を口にした。俺も、慎重に頷いた。
「……確かめたの?」
「ヒモって人には、会いました。そのひとから、兄貴が売春してるって聞いたんです。本当に売春してるのかは、分からない。確かめに行っては、ないです。」
言ってから、そうか、と思った。俺は、兄貴が本当に売春しているかなんて、確かめていない。ただ、あの男の言うことを真に受けて逃げ帰って来ただけだ。もしかしたら、あの男は適当なことをふざけて言っただけかもしれないのに。俺は、そう思い込みたかった。あの男が発した、妙に悲しい台詞なんかを思い出したら、それが全部嘘だなんて思い込めはしなかったのだけれど。
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