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空気がほしくて、水底から浮上したくて、俺はじたばたした。言っても言わなくても意味がないような台詞を男に投げかけ続けた。
「でも、あんたから突き放してくれれば、兄貴だって目が覚めて、戻ってくる気になるかもしれない。突き放してくれさえすれば、全部元通りになって、家族だって、元通りに……、」
「ならないよ。」
男は三本目の煙草に火をつけながら、さらりとそう言い捨てた。
「俺は康一を突き放さない。当然でしょ? 俺、ヒモだよ? ヒモは飼い主を突き放したりしない。それがヒモが示せる唯一の誠意だし。それに、もし突き放したとして、康一はきみのところに戻るとは限らない。まあ、戻らないだろうね。その上、もし万が一戻ったとしても、それでなにもかもが元通りになんてならないよ。」
男の物言いには一定の音律みたいなものがあって、短い歌を聞いているみたいな気分になった。その歌に押されるみたいになった俺が、返す言葉の一つも見つけられないうちに、男はにこりと笑った。
「きみがいる限り、康一はヒモを必要とするし、家にも戻らない。……だとしたらねぇ、どうする?」
「……俺が、いる限り?」
うん、とあっさり頷く男を見て、俺は兄貴の姿を思い浮かべた。観音通りのネオンの下で、俺に似た地味な姿は、きっと沈み込んで見えるだろう。それでも、兄を買う男はいるのだ。この男を養えるくらいには、兄の身体には価値があるのだ。
亜美花さんに、観音通りに行ってもらったことを後悔した。もし男の言うことが真実なのだとしたら、兄貴が観音通りに立った原因が俺なのだとしたら、俺が行くべきだった。亜美花さんではなく。亜美花さんの言う通りに、兄貴は俺に売春がばれたら死んでしまうとしても、俺が行くべきだった。
「……行かなきゃ。」
かすれた声が空間に注がれ、俺は一拍置いて、それが自分の声だと認識した。まるっきり他人事みたいに、ふわふわする意識の中でその声を聞いていたのだ。
「俺が、行かなきゃ。」
今度は、はっきりと意識して、言葉を発した。俺が、行かなきゃ。兄貴を、迎えに行かなきゃ。
男はなにも言わなかった、ただ、両目を細めて俺を見ていた。俺は、その視線に内心怯んだ。一見穏やかなのに、内面に激しいなにかを秘めた視線に思えた。ただ、男はすぐにその視線を俺から天井に逸らし、そう? 軽く首を傾げた。
「わざわざ行かなくても、康一はそろそろ帰ってくるよ。」
そう言われてようやく、俺はもうここにやって来てから随分長い時間が経っていることに気が付いた。
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