0人が本棚に入れています
本棚に追加
新居へ先に到着して何もない空っぽの空間に身を置いた瞬間、とてつもない虚無感が身体を襲った。生活をする場所に変化していくのだから大丈夫だと言い聞かせて窓を開ける。頬を抜けるのは夏風の筈なのにどこか冷たく感じた。
数時間後運び込まれた家具の数々で部屋の端が少し埋まると心に余裕が増えたものの、部屋に自分の音だけが響くというのはあまりない体験でどこか違和感を感じる。わざと音を立てるように引越し業者が置いていった荷物を床に散乱させた。その後も運び込まれる家電で空っぽだった部屋は少しずつ『生活をするための部屋』に変わっていった。
引越しで随分と疲れた身体を癒すために、そして一人暮らしの第一歩を祝うために、近所で豚カツを買った。
空いた段ボールをテーブルがわりにして一口食べると、その旨みが全身に広がる。特段問題なく美味しいのは勿論だったが、何かが足りない。
「ああ、ソース」
惣菜コーナーにあるソースはどこか味気ない。重たい腰をあげて冷蔵庫から市販のソースを取り出しカツの上にかける。もう一口食べると、先ほどより味が濃くなったことだけは分かった。
他は何も変わらない。いつも家で食べたカツのソースは、こんなに酸っぱくなかった気がする。
思わず母に電話をかけた。すぐに耳越しに母の声が聞こえる。
「もしもし。どうしたの」
「ごめん、あのさ、ウチで使ってるソースってどこの?」
「ソース?」
「カツにかける時のソース。市販の一番有名なやつ買ったんだけど、味違ったから。ウチって何使ってるのかなって」
「ソース自体はそれで合ってるけど、カツにかける時はマヨネーズと砂糖を少し入れてるの。酸っぱいの嫌ってよく言ってたからね、あんた」
確かによく外食で食べるソースは味気なかったり、酸っぱかったりしていたと思い出す。母は毎度そんなに面倒なことをしていたのか。
「今日まだマヨネーズないから、今度買ってみる」
「買っておいた方がいいもの、メモしようか」
「ううん、大丈夫。じゃあ」
母の電話をすぐに切ったことを後悔したのは翌日だった。仕事で使っている資料がない。そういえば実家に置きっぱなしだった事に気付いた。本棚の下の段をすべて埋めてしまうくらい大量に詰め込んだ資料たち、あれをこの家に持ってくると思うと億劫になる。
僕は仕事の片手間、母に連絡を入れた。
『仕事で使う資料、送ってほしい。本棚の下の段に入ってるやつ。』
母の連絡は上司よりも早い。すぐに返信が返ってきた。
『ちょうど今段ボールに詰め始めたところ。あと適当に使いそうな物も送っておくから、使わなかったら捨ててね。仕事がんばって。』
上司より物分かりもいい母からの返信に感謝して仕事を再開した。
最初のコメントを投稿しよう!