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物が多くて鬱陶しかった台所。忙しなく動く母。物音ひとつ鳴らない新居では、そんな母の音さえ僅かに恋しくなってしまった。なるべく音を鳴らす様に玉葱を切り刻んでボウルに入れる。スマホをスクロールして、見たことのないカタカナに戸惑った。
「ナツメグ…」
塩と砂糖、胡椒しか無い台所を眺めて数秒、即座にハンバーグを作ることを諦めた僕は、まだ開けていない段ボールに手をかけた。
即席麺でも入っていればと思って封を開けると、ほんのり甘い香りが広がった。実家の風呂に置いてあった数々のシャンプー。僕が頻繁に使っていた入浴剤、洗顔料、保湿のためのクリーム。まるで僕が困ることを見透かしたかのように、僕が必要とするすべてがそこに置いてあった。
思わずそのまま次の段ボールの箱を破るように開けると、次は懐かしい香りが顔に当たった。描くは母の背中。あの台所。夕飯の準備をする音。
箱の中には僕がよく知らない、ただ味だけはよく知っている、そんな調味料がいっぱい詰まっていた。かき分けるようにして箱の底を手で撫でるとツルツルとした紙に触れた。それを引っ張り出して眺める。僕がいちばんよく知っている時だった。
【仕事は順調ですか。
人ひとり居なくなるだけで物が多くてもこんなにも寂しいものなのね。顔を見せに来てなんて言わないけれど、いつだってウチはあなたの家だから。辛くなったら帰っておいで。
どうか健康で。】
いつまでも断捨離を続けなければならない本棚、風呂場に何種類か置かれたシャンプー、なによりキッチンに置かれた使わない調味料の数々。そのすべてが僕に贈られてきた愛だと知って、二度だけ鼻を啜った。
夏が巡ってくる。
湿った空気が窓を通り抜けるころ、僕はそんなことを思いながら少しだけ埃っぽいフローリングに体を預けた。
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