4 湯葉 改め 雪

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4 湯葉 改め 雪

 翌日の朝、教室に入る前に潮音さんに呼び止められた。  登校するとシューズボックスの中に、『本日の昼休み、視聴覚室に来るように』と書かれたルーズリーフが入っていたらしい。  潮音さんは青ざめた顔で「どうしよう、きっと捕鯨反対の会が……」とすっかりうろたえている。 「私も一緒に行くよ。一人じゃなきゃ変なことはしないでしょ」 「でも、何をされるか……卵をぶつけられるかも……」 「やっぱり先生に相談する? 今から職員室に行こうか」 「うーん……それは……」  潮音さんはくじら肉を好んでいたことを今では恥じており、それを他人に知られたくないとのことだ。  先に登校していたらしい御手洗くんが私たちの沈んだ空気を感じ取ったのか、教室から出てきて「どうかした?」と声をかけてきた。  昨日からのことのあらましを説明すると、「俺も一緒に行くよ。湯葉のフードネームがきっかけなら、そもそもの原因と責任は俺にあるから」と約束をした。  教室に入って自席に向かう途中、席の近い子から話しかけられた。 「紺頼さん。あのね、……アレ、持ってない?」  血の気が引くのを感じた。息が震える。 「あ、ごめん、今日は……」 「そっか。ごめんね」  彼女はそそくさと離れて教室を出ていった。別のクラスの友達に頼みに行ったんだろう。  私とあの子とは今年同じクラスになったから、去年あったことは知らないはず。知らないはず……。  朝のホームルームが始まる前、急に落ち着かなくなってトイレに立った。鞄の奥にしまってあるポーチを取り出して、まるで罰則品のように隠して運ぶ。  もしさっきの彼女に見られたら、持ってるくせにくれなかったケチなヤツだと思われるかもしれない。  ごめんね、今日は自分の分しか持っていなくて……と説明できればよかったけれど、とっさに頭が真っ白になってしまった。そもそもこうなったのは──。 「(かのと)?」  トイレの洗面台の前に、湯葉が立っていた。  湯葉は流し場に散らかっていた、誰のものとも知れない髪の毛を右手でつまんでゴミ箱に捨てていた。  公共の場はキレイに保ちましょう。湯葉は正しい。いつでも正しい。清く美しい。でも、そういうところが疎ましがられる。  ──だってみんな清く正しく美しくなんかいられない。  ロマンティック・ハラスメントなんて言葉が流行するとしたら、モテない人間の自分への言い訳だとか、そういう嘲笑とセットだろう。  湯葉は、かえってを危険に晒した。ロマンティック・ハラスメントなどという言葉で。  恋愛を嫌悪したり恐怖したりする人間が存在するということを、の人は信じてくれない。だから嫌悪感や恐怖心は隠して、モテないという理由に甘んじていればよかったのだ。  私のどこがいけないのかなーと情けなく笑っていれば一生をやり過ごせたかもしれないのに。顔かな性格かな体かな頭かなあ。  他人を愛せないなんていう文字通りに致命的な欠点を明るみにされて、いったいどうやって生きていけばいい。  無感情無関心の人間だと公言するのは恥ずかしい。いちいち自分を恥ずかしいと感じることさえ疲れた。  湯葉は手を丁寧に洗ったあと、まだ私が背後に立ち尽くしているのを見て驚いたが、私の手元のポーチを見て「お腹痛いの?」と心配そうに眉をひそめた。  私は首を横に振ろうとして、やっぱりお腹が痛いふりをすることにして、うなずいた。  御手洗くんがデッドパンと表現した仏頂面が、今はまるで形無しだと鏡を見なくたってわかっている。 「おお、よしよし」  湯葉はちょっとおどけた声を出した。  小学校を卒業したときは私の方が高かったのに、今では湯葉の方が長身だ。私は平均身長止まり。別にもう伸びなくてもいい。 「大丈夫。この世に起きる悪いことぜんぶ私が無くしてやるからね。手始めにこの学校からだ! まかせてよ!」  冗談のつもりではなく、本心からそう願っているのだ、湯葉は。私にはわかっていた。  わかるからこそ、つらかった。
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