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卵を割らなきゃオムレツは作れない。
潮音さんが使ったこの言葉はフランス語のことわざだそうで、「目的を達成するためには犠牲が必要」、「行動を起こさなければ結果は得られない」という意味らしい。
湯葉の完璧なヤマ当てメモはタダではなく、私と御手洗くんは小テストの居残り再提出を逃れた代わりに、昼休みに起きたことを白状しなければならなかった。
事態を知った湯葉の行動は早かった。
木曜日の昼休み、人気の少ない旧校舎二階の階段の踊り場にて、湯葉と潮音さんと捕鯨反対の会で話し合いが行われた。
私と御手洗くんも立ち会った。
潮音さんが過去にくじら肉を好み「くじら」と名乗ったことが捕鯨反対の会の逆鱗に触れたのであれば、改名をしてはどうか、と湯葉は提案した。
カニカマ先輩は拍手で同意した。
「この人受験生なのにこんなことしてていいのかな」
「おそらく受験のストレスをこの会の活動で発散してるんじゃないかな」
私と御手洗くんは踊り場の端でぼそぼそと囁きあった。
潮音さんは新たなフードネームを名乗ることにした。
ミックスベジタブル。それが捕鯨反対の会に迎合した彼女の新しい名前だ。
そして、湯葉は自分も改名することを申し出た。痛み分けとして。
くじらさんの思い出の味に触発されたことが表向きの理由だったが、実際にはくじらさんの改名を目立たなくするためだ。
湯葉、改め、雪。
雪は食べ物じゃないけれど彼女にとっては味わい深いものだった。
この地方ではめったに雪は降らない。小学生のとき、登校するときに空を見上げながら舌を突き出して降ってくる雪を味わった。
「そのひとひらが一番の思い出なんです」と過去を語る彼女に、捕鯨反対一同はにこやかな顔でうんうん頷いて、踊り場を下りて行った。
湯葉──雪は、私に振り向くと笑う。
「そういうわけで今日からは雪って呼んでね」
私はいよいよ彼女に笑い返すことができない。
「変なことに巻き込んでしまってごめんなさい」
「いえいえ、元は私が撒いた種だしね」
教室に戻る途中、先を歩く潮音さんと雪はそんな会話を数度繰り広げていた。
私と御手洗くんは少し離れた後ろを歩いていた。今日は一段と冷え込み、渡り廊下に吹く風は突き刺すような痛みを私たちに与えた。
「こんな大事な時期にニックネームを変える奴の信用度なんてがた落ちだろうな」
御手洗くんの小さな溜息が白く色づく。
私はたじろぐあまり、責めるような口調を抑えきれなかった。
「そう思ってるなら、どうして止めなかったの? 当選の可能性が低いから?」
「湯葉は……いや、雪は、初めから当選する気なんてないよ」
彼がなにを言っているのかわからなかった。
曇った眼鏡を外し、カッターシャツの袖で乱暴に拭いながら、御手洗くんは私の顔を見ずに告げる。
「もしも生徒会長に当選したらもちろん懸命に働くだろうけど、雪にとってはみんなの前で演説する場が大事だったんだ。普通、ただの主張なんて聞いてもらえないからね」
「主張って……」
「雪は本当に、ただみんなに……できるかぎり多くの人に、考えてほしかったんだよ。恋愛感情は人を傷つける可能性があるってことを」
その日の放課後、私は雪を寄り道に誘った。
「教会に行こうよ、雪」
「……なんで?」
雪があからさまにげんなりした顔を見せるのはめずらしい。だけど私は退かなかった。
「神頼み。選挙、当選しますように」
「……私はしないよ。けど、まあ、辛がするのは、ご自由に」
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