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靴下にカーペットの感触が久しぶりになじむ。
聖堂の空気は静謐で厳粛で、大した信仰心を持たない身でも自ずと居住まいを正してしまう。
今月は主の降誕ミサがあるから、大きなツリーも飾り付けられている。
「……小学生の頃は、もっと大きく見えたな」
私の呟きに雪はなにも言わなかった。
それでも輝く星やベルは変わらずきれいだよね、とか言うかと思ったけれど。
バラ窓から射し込む陽光は清浄で、舞う埃さえも神聖に見える……のは、結局、私が信仰を持たない俗物だからかもしれない。
信じるものをなにひとつ持たない。愛するものもなにもない。
私たちは同じ椅子には座らなかった。
私が掛けた長椅子の、通路を挟んだ隣の長椅子に彼女は腰を下ろした。
他に礼拝者はいなかった。それでも私たちは高い天井に響くことを恐れて、ごく小さな声で言葉を交わす。
「雪」
「うん?」
「御手洗くんのこと好き?」
「好きだよ」
「潮音さ……ミックスベジタブルさんのこと好き?」
「好きだよ」
そうやって誰の名前を挙げても雪は好きだと答える。
彼女にとっては、人間というだけで哀れみを催すから。
「私のことは?」
「……好きだよ」
「それならさ、雪は、誰を選んでも幸せになれるよね」
雪は答えなかった。
「だったら、こんなこと止めたっていいと思うよ」
「……辛は?」
雪の声は震えていた。
悔しさかもしれない。悲しさかもしれない。わからない。
私は両手を膝の上で握っていたけれど、祈っていたわけではなかった。
「辛が誰のことも好きにならないなら、私は淋しいけど安心する。一生、誰のものにもならないなら、悲しいけど嬉しい」
隣を見ると、雪は私ではなく目の前の磔刑像を見つめていた。
「罰したければそうすればいい」
彼女は吐き捨てるようにそんなことを言った。
『××くんが、あなたのこと好きだって、言ってたから』
一年前、クラスメイトは悪びれもなくそう言った。
どうしてそんなことしたの、と怒りに震える私の方がまるで異常であるかのように。
クラスが同じだけでそれほど話したこともない彼女は、昼休みに私の耳に口を寄せて「ねえ、アレ持ってない?」と尋ねた。
当時、私は善人だった。
善人だったので、困ってる子のことは助けて当然だと思った。いや、助けるなんて大層な言い方する必要もない。
生理用品の準備が無いときに、なってしまった子に自分のものを渡すくらい、当然、誰だって、頼まれればそうするだろう。
でも、それを男子に渡されるなんて誰が思った?
──紺頼はこれを使ってんだ! 多い日夜用羽根つき!
──なんで昼なのに夜用?
──紺頼さんって結構重いんだね。体育のときとか大変そう。
放課後の教室でそんな会話が繰り広げられて、私は凍りついた。
忘れ物を取りにきた私の姿を見つけた子は、悪びれた顔すらしなかった。
──下着じゃあるまいし、いいじゃんナプキンくらい。使ったもの渡したわけじゃないんだから。
誕生日や血液型を知りたがることと同じ程度の軽さで、胸囲や下着のサイズを知りたがるほどの汚さはないとでも言いたげに。
ああでもそうなのかもしれない、みんなそんなことは恥ずかしくないのかも。私がおかしいだけなのかも。
当然この話は湯葉の耳にも入り、湯葉は今までに見たことのない表情を見せた。地球温暖化や民族紛争について憤っているときだってあんな顔はしたことがなかった。
湯葉は怒ってはいたものの冷静で、「私になにかしてほしいことはある?」と尋ねた。
私が湯葉に頼んだのは、この件について一生なにも言わないで、忘れてほしいということだけだった。
今後、このことは絶対に話さないでほしい。誰に対しても、私に対しても。
お願いだから湯葉だけはこのことを忘れてほしい。
長い沈黙のあと、湯葉はわかったとうなずいた。
このとき彼女は泣いていた。私は泣いていなかった、と思う。
湯葉は泣きながら、私のことを好きだと言った。ずっと前から好きだったと。
その告白を聞いて私は泣き出した。到底、受け入れられなかった。
「いつまでも親友でいたい、親友の方がいい」と泣きじゃくる私の肩を抱こうとしたのだろう、湯葉は手を伸ばして、けれど私に触れないまま、力なく腕を下ろした。
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