5 優芽と幸

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 最後の立候補者演説が始まる。候補者とその推薦人の十名が壇上のパイプ椅子に腰かけている。  トップバッターの生徒が緊張しきった様子でマイクに向かう。  大半の生徒は生徒会なんてどうだっていい。正直、生徒会がどんな活動をするかすら知らない。  単なる内申点稼ぎ、面倒ごとを適切に対処してくれる便利屋。その程度だ。みんなわかっている。ただ同級生の対立を面白がっているだけだ。この学校の改善なんてものはどうでもいい。  雪が最善を尽くそうとしているのは、誰のためかなんてどうでもいい。   二番手の潮音さんは張り詰めた表情とは裏腹に、声は堂々と落ち着いていた。さすがコーラス部。美しいソプラノの声に、生徒のざわめきも静まっていく。  潮音さんの次、三番手の雪がいよいよマイクの前に立つ。  雪の声音は明快で、笑顔は自然体で、いつもの調子だった。話がロマンティック・ハラスメントのことになると、生徒はいっそう清聴した、ように思えた。   「恋愛に関心を持たない人もいるのです。ロマンティックを求めることはもちろん悪いことではありません。好きな人を明かすことの強要は止めましょう」  一番手と二番手には挙がらなかった質疑応答の手が挙がったときも、雪は落ち着いていた。  質問者は、同学年の男子だった。  嫌な予感がした。彼とは去年同じクラスだったが、より良い学校について真剣に考えるような奴には思えない。   「ロマンティック・ハラスメントって恋愛感情を持たない人もいるってことですよね」 「はい、そうです」 「でも恋愛感情を持たなかったら人間は滅びますよね?」 「……はい、そうですね」 「じゃあどうやって人類は発展するんですか? 生きものがどうやって子どもを作るか、知ってますよね?」 「……はい」  ニヤケづらが広がっていく。  雪と御手洗くんは二人そろって固まっていた。あきらかに不測の事態だった。  二人はなんだかんだで真面目すぎて、こんな下品な方向に話が展開するなんて思いもよらなかったのだろう。  私は唇を噛んだ。こういう事態に発展してもおかしくないと、私なら予想できたはずなのに。  ざわめきはせせら笑いを過分に含んで広がっていく。  これは単なる質疑応答だ。  壇上の彼女には答える責任がある。義務がある。  皆、この状況は嫌がらせではないと思っている。  だって立候補者の白勢優芽が、妙なことを先に言い出すから。性欲が当たり前の認識を覆そうとなんかするから。自分の欲を満たすことが恋愛だから。  私のときだってそう。あれは嫌がらせではないと皆は思っていた。  だっていじめって、嫌いな相手にやることだから。  私に好意を持つ男子がいて、周囲の皆さんは彼の恋を応援したかっただけだ。  だから誕生日や血液型や好きな食べものを教えるように、私が携帯しているナプキンを見せた。ただの情報の伝達だ。  私は喜ぶべきだったのだ、きっと。照れて恥じらって笑ってみせるべきだったのだ。  ──この場にいる奴らは、そんな言い分が通ると本気で思っているような連中だ。  雪はこんなやつらを相手に、ロマンティック・ハラスメントなんて主張を続けている。大馬鹿だ。話が通じるわけないじゃないか。  小学生の頃にフードネームに救われたから、という理由で、当選するつもりもない雪につきあっている御手洗くんも大馬鹿だ。律儀に恩なんか返そうとするなんて。そもそも、恩に感じる必要なんかないのに。名前なんて自分では変えようがないんだから、嘲うやつらが悪いに決まっているのに。  私の親友が今こんな目に遭っているのは、彼女がみんなより意識が高いからでも、清く正しい聖人だからでもなんでもない。  私を理解しようとしたせいだ。  彼女が長年恋している相手は、去年受けたショックからまだ立ち直れずに無表情を張り付けて愛だの恋だのをすべて拒絶することに決めたとんでもない陰気者だからだ。どこがいいのかまるでわからない。趣味が悪すぎる。よりにもよって、こんな。  教師たちが「はい、そこまでにしてください」と場を取りなす。雪は立ち尽くしていたが、はっとなって、姿勢を正した。 「待ってください。私の持ち時間はまだ終わっていません」  毅然とした表情だ。でも青ざめている。唇も震えている、きっと。ここからじゃはっきりとは見えないけれど、声音でわかる。あれはいつもの雪の声じゃない。  他の学生なんてみんな、切りすぎた前髪だとか体毛の濃さだとかほくろの位置だとかに涙を流すことさえあるのに、自分は違いますという顔をして、清く正しい雪はロマンティック・ハラスメントについて説き続ける。  ずっと傷ついているくせに。私に傷つけられているくせに。  一緒にいるのが苦痛ならもう友達でいてくれなくてもいいとは、私は言えなかった。だから雪は私を突き放すことすらできなくなっていた。いつまでも捨てられない絆創膏のように、海を描いた卵のように。  恋愛なんて最悪だ。恋だの愛だのは自分の身勝手な欲望を正当化するための自己欺瞞だ。所詮そんなものなのに、それができないから雪は今苦しんでいる。    雪は私になにも押しつけることなく、私を愛そうとしている。  そんな無理難題、いったい地球上のどれくらいの人間にできるのかなんて考えもつかない。    静まらないままの体育館に突然、第三勢力が立ち上がった。 「くらえ!」  聞き覚えのある叫びは、捕鯨反対の会の面々だった。  彼らは壇上の雪に向かって卵を投げつける。カニカマ先輩の投球は正確ではなく、実際には卵は雪には届かず演台に当たって砕けたが、体育館は騒然となった。 「白勢優芽! この偽善者め! たかがフードネームの改名くらいで我々の主張を治めたつもりか!」  イースターでもないのに、捕鯨反対の会は卵を盛ったかごを抱えていた。そして周囲の面々に配り始める。 「人間のことより鯨のことを考えろ!」  反捕鯨勢力は大衆を味方につけるのが上手かった。彼らは悪ノリしやすい生徒に卵を渡して、壇上の雪に投げつけるように扇動している。    みんながロマンティック・ハラスメントを真に受けないように、私たちも捕鯨反対についてカニカマ先輩たちが望むほどの理解を示さなかった。彼らの主張を軽視した。自分たちのことに必死だったから。踊り場で停戦を結んだのはうわべだけのことでしかなかった。  四方から雪は卵を投げつけられた。それでも毅然と顔を上げてスピーチを続ける。論調はますます熱くなる。 『行ってあなたのすべきことをしなさい』  聖書のこの言葉は、私の耳にはいつだって小学生の白勢さんの声で響く。  私は立ち上がり、群衆を掻き分けて壇上に向かう。  血相を変えてはいないはずだ。デッドパン。それが私の特技だ。こんなことはおもしろおかしくもありませんと無表情を保つことだけが、身を守る術だ。  パニックに陥った人間が突然乱入していくわけでもない、やるべきことをやっている顔をした人間なんて止めようがない。  だからみんな私に自ずと道を譲った。人波を進みながら、海を割って歩く人の話を思い出していた。  壇上の他の候補者たちはパイプ椅子の影に隠れている。  御手洗くんは雪のそばに立ち庇おうとしていたが、雪とそう体格の変わらない彼では壁にはなれなかった。眼鏡に卵がヒットして、彼はつんのめった。 「受験生なのにそんなことしていいんですか!?」  御手洗くんがそう叫んでも、カニカマ先輩は止まるどころか「受験のストレスを晴らすなら今だ!」と叫び、ついに三年生の一部も奇声を上げてこの狂乱状態に乗り出した。    先生たちは生徒たちを押さえようとするが、日ごろ抱える不満をぶつけるように先生に向かって卵を投げる者も現れ、果ては生徒同士のぶつけあいになっていた。この一年にあった憤懣が至るところで暴発している。 「あんたに教わるなら塾の方がマシだ! 税金ドロボウ!」 「お前のせいで県大会敗退したんだ!」 「いつも私の真似ばかりしやがって!」  二段飛ばしで階段を上がった先、壇上の生徒たちは呆然としていた。もう選挙どころではない。 「雪」 「……(かのと)」  まだマイクの前に立ったままの雪は唖然としていた。側頭部には卵の白身がかかっており、目にうっすら涙の膜が張っている。  眼鏡を外した御手洗くんは床の上にあぐらをかいていた。今や立候補者はおろか推薦者だって注目の的ではないからか、視線恐怖症も和らいでいるようだ。私に気づいた彼はすくっと立ち上がると、私たちに向かって真顔で敬礼した。それがますます喜劇じみていたけれど、御手洗くんの手はやっぱり少し震えていた。  彼にひとつうなずいて、私はデッドパンを貫いた。怒り狂って喚き散らすことも、その場にうずくまって泣きだすことも、今はすべきじゃない。  飛び交う卵卵卵。これ全部無精卵だろうか。今この瞬間、食糧危機のために雪は胸を痛めているにちがいない。  徹底的な無表情で、私は雪の手を引っ張って連れ出した。  こうして無表情を保ち続けることはできても、無感情でいることは不可能だった。  いつも、どの瞬間でも。
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