5 優芽と幸

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 誰かの笑い声が耳に障る。体育館を出て渡り廊下まで来たとき、笑っているのは雪なのだと気づいて一気に苦々しさが込み上げてきた。  手を離すと、雪の笑いは止んだ。  立ち止まって振り返ると、卵黄を踏んでしまった私と雪の汚れた足跡が続いている。 「……しばらく卵は食べたくないな」  大きな罪悪感もこめて私がそう零すと雪はまた笑い出すので、幸せから遠のいたと感じる。  でも、もうそれでいいんだと思った。 『心の貧しい者は(つら)いです。天の御国はその人のものだからです』  私の目には、(さいわ)いがすべて(つら)いに見えた。私の誤読をみんなは笑い、白勢優芽だけが笑わなかった。人の過ちを笑ってはいけない。そんな難しいことを幼い彼女は守っていた。  だけど白勢さんがあのとき笑わなかったのは、そう読んだ私は間違っていないと知っていたからかもしれない。    渡り廊下には容赦なく雪風が吹き込んでくる。  人の熱気と混乱があふれる体育館にも、暖房が切られている冷たく静かな教室へも向かわないまま、私たちは歯の根を震わせて佇んでいた。  私は雪に向かって手を伸ばし、彼女の髪を滴り落ちる卵白を制服の袖で拭った。 「うわ、いいよ、(かのと)。汚いよ」  狼狽する彼女の耳が赤く染まりだす。  好きとも愛してるとも言えないけれど、ごめんなさい以外の言葉で私が彼女に言うべきことがようやく見つかった。 「雪」 「なに?」 「私のこと、いつも我慢してくれてありがとう」  御手洗くんはひとつ間違っていた。  デッドパンならば、私よりも優芽の方がずっと上手(うわて)だったのだ。 「……はは、なに言ってるんだか」  彼女は軽い声でそう言って肩をすくめたあとに、懺悔をする罪人のように目を伏せた。 「たとえ指一本触れなくたって、私はいつだって(ゆき)を抱きしめていたよ」 「わかってる」  本当に、よくわかっていた。 (了)
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