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これから本屋に寄るという御手洗くんとは店先で別れた。
湯葉とふたりの帰り道、教会の前を通りがかったとき、「ここも変わらんねえ」と湯葉がしみじみ目を細める。
小学生の頃、私たちは同じ教会に通っていた。といっても敬虔な信徒ではなく、子ども会の付き合いの延長で、バザーや英会話教室に参加していた程度のつながりだ。
小学三年生当時、私たちはお互いを「紺頼さん」「白勢さん」と呼び合っていた。
学校では同じ教室で、週末には同じ教会で顔を合わせるけど、同じグループではない女の子。しばらくはそういう関係が続いていた。
距離が近づいたきっかけは、私がみんなの前で聖書の言葉を読み間違えたときだ。
『心の貧しい者は、辛いです。天の国はその人たちのものだからです。
悲しむ者は、辛いです。その人たちは慰められるでしょう。
柔和な者は、辛いです。その人たちは地を受け継ぎます。』
『幸いです』を『辛い』と間違えた私を子どもたちは笑い、大人たちも失笑していたが、白勢さんは笑わなかった。
いつもにこにこしている子が、笑いの渦のなか一人だけ唇を引き結んで、笑顔を絶やしたその姿が──ステンドグラスを透かして射し込む陽が頬に幾何学模様を作っていたことまで、私の目に焼きついた。
私自身、誰かが同じ間違いをしたら笑ってしまうだろうし、不敬虔なことに恥じ入るようなこととも思わなかったのでいっそ笑ってくれてもいいのに、と思った。
翌週の月曜日、私は登校すると白勢さんの席にまっすぐ向かい、感謝のしるしというよりも彼女の真面目さに痛み入るという気持ちから、絆創膏を渡した。
当時、女子の間では物々交換が盛んだった。
フルーツの匂いつきティッシュだとか、キャラクターの絆創膏だとか、可愛かったり珍しかったりするシールを──先生に見つかっても取り上げられないようなものを、お互いへの友情や好意の証として交換するのだ。
白勢さんはまじまじと眺めて、「いいの? もらっていいの? ほんとに?」と何度も尋ねた。
たかが絆創膏を宝物のように扱う手つきに、私はなんだか恥ずかしくなった。
白勢さんにとっては他人の失敗を笑わないことは当然のことで、感謝されるようなことではないのだ。対価を払うことで私は彼女の「清さ」をおとしめてしまったのではないかと不安に思った。
その年の春のお祝い・復活祭の日、エッグ探しが行われた。教会のあちこちにきれいに着色された卵が隠されており、見つけた子はそれと引き換えにプレゼントをもらえるイベントだ。
いつまでたっても一つも見つけられない私に、白勢さんは「絆創膏のお礼に」と自分が見つけた分を渡してくれた。
これでようやく対等になれたとでもいうかのような笑顔だった。
小学校高学年になって、私よりも先に湯葉が教会に行かなくなった。
湯葉は小さな子たちの相手をしたり、同年代の場を取り仕切るのが得意だったので、彼女の欠けた子ども会を大人たちは大いに惜しんだ。
中学に上がってからは私ももう足を運んではいないけれど、久々に訪ねてみるのもいいかもしれない。
母校を懐かしむような気持ちが湧き上がり、湯葉に尋ねる。
「中にちょっと入ってみる?」
礼拝のための出入りは自由だった。
私は信心深いわけではないけれど、学校の教室とはまるで違う、長椅子の並ぶ静けさに満ちた空間にいると落ち着いた。
「ん? うーん……やめとく」
湯葉が小さく笑って首を振るので、私は「そっか」と頷く以外のことはできない。
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