2 御手洗くん曰く

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 帰宅して自室に上がり、コートを脱がないままベッドに身を投げる。  陽が落ちて薄暗い室内の天井を見上げる。  愛だの恋だの言う奴には吐き気がする、そんなものに夢中になっている奴らには吐き気がする、死ねばいいと思う、いや言い過ぎた、死ななくてもいい、勝手に繁殖すればいい、でも私を巻き込むな、ほっといてほしい、──これが私の本心だ。  ロマンティック・ハラスメントなんて言葉では美しすぎる。湯葉が使う言葉は優しすぎる。私の本心はただの罵言でしかない。  自分が特別じゃないことはわかっている。  自分だけに不幸が起きているわけじゃないことはわかっている。  電気もつけないまま、スマートフォンを顔にかざす。  目を刺すような光に耐えながら、ネット上を検索すればすぐに出てくる、性的嫌がらせを受けた人の記事を熟読する。  身体的接触、言葉の暴力、見知らぬ人からの、あるいは信頼していた人からの、暴力の数々。  自分以外にもこんなにいるんだから、と安堵することに嫌になる。この人達の傷に慰めを得たことに罪悪感が募っていく。  せめて「あなたの人生が良くなるように願っています」とコメントしようとして、前の欄に更なる性的嫌がらせのコメントがあることに気づいてスマホを床の上に落とした。  私は自分の経験をどこにも書き込んだことがない。ささいなヒントを得た誰かに特定されるのが怖い。それ以上に、「そんなの大したことじゃない」と言われるのが怖い。慰めを得るためではなく、さらなる楽しみとして消費されるのが怖い。  怖いことしか、ない。  このまま眠ってしまいたかったけれど暖房もつけていないままだからくしゃみが止まらなくなり、寒気に震えながら起き上がる。  コートを脱ぐ前に、勉強机の一番上の引き出しを開ける。そこには勉強道具ではなく、小学生のときにお気に入りだったけれど今はもう使わないもの──友達と交換したシールやビーズのブレスレットやら──をしまっている。  その一角に、湯葉──白勢さんが絆創膏の代わりにくれたイースターエッグも置いている。  中身を抜いた卵の殻には、たいていの場合明るい色で花柄や水玉模様が描かれていたけれど、白勢さんがくれた卵は、何色もの青色が薄くグラデーションになっていた。 『卵に海を描くなんてすごいよね』  彼女がそう笑うまで、私はそれを海だとすら思わなかった。ただの青い卵にしか見えていなかったのだ。 『わたしもこういうことを考えられる大人になりたいな』  イースターエッグを用意したのは子ども会を運営する大人たちで、海を描いたのは誰かの保護者なのか、協力的な地域住民なのか教会の人なのかわからなかったが、そんなふうに大人を賞賛する白勢さんに、私はひどく驚かされたのだった。    イースターエッグと引き換えのプレゼントは図書券やステーショナリーセットなど魅力的なものが揃っていたが、私はそれを引き換え所には持って行かなかった。  高級チョコレートが入っていた銀色の小箱に、クッションのように綿を敷き詰めて、こうしていまだに机にしまっている。  だって、湯葉も私があげた絆創膏をいまだに取っているはずだから。
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