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41. 契約
サフィラは朦朧とした意識の中、テストゥードーの腕に囚われ、海の中にいた。その発熱している皮膚の当たる部分は熱く、肌がじりじりと痛む。
しかし不思議なことに、テストゥードーの周りの海水は冷えたままだった。ただサフィラの肌と触れ合う部分だけが、熱い。
「これはもういい」
テストゥードーは、無造作にナイフを引き抜いた。傷口は海水に触れたところから出血が止まり、みるみるうちに癒えていく。
(跡、残っちゃったかな。クラヴィスが悲しむな)
こんなときでも、考えるのはクラヴィスのことだった。テストゥードーはやがて、深く暗く、冷たい海の底へとサフィラを連れていった。
輝くものはテストゥードーしかない。夜よりも深い闇の中へ、神はサフィラを沈めていく。
「きみには、これからマーレへの贄になってもらう。まさかウォルプタース家の当主直々に贄となるとは、期待以上だ」
その身体が、再びぐにゃりと歪む。海亀の姿になり、サフィラの周りを優雅に旋回した。
サフィラは血の足りない身体で踏ん張り、テストゥードーをにらみつける。彼はこたえた様子もなく、悠々とサフィラを見下ろした。
「ウォルプタース。きみたちは私の忠実なるしもべだったのに、どうしてあのときしくじったのか」
「そんなこと、僕が知るわけない
噛みつくサフィラに、テストゥードーは表情をぴくりとも動かさない。
「そんな反抗的な目をするな。きみの信心を疑いたくなる。きみもまた、さまよえる先祖のようになりたいのか?」
何を言っているのか分からない。だけどサフィラは、苦々しく吐き捨てる。
「……僕をずっと助けてくれなかった神様のことなんか、こっちだって知らないんですよ」
ほう、とテストゥードーは目を細めた。
「家族で暮らしてきた島を、屋敷を手放さなきゃいけなくなった。それからずっと弟を養わなくちゃいけなくて、僕自身の人生は、どこかに行ってしまった」
心の奥底に閉じ込めていた恨みが、理不尽への怒りが、蓋を開けて飛び出してくる。
こんなこと、誰が聞いていなくても言っちゃいけない。なけなしの理性は消え失せて、ただ衝動のままに吠えた。
「神様に祈ってもお金は湧いてこないし、神様に恥じないよう正直なつもりでいたら騙された。一族の宝も、僕の代で台無しにしてしまった!」
自分を超越した存在への甘えと、他責。それから自責の念。サフィラは身を焦がすように身体をよじり、胸をかきむしった。
いつもは、こんなことを思ってなんかいない。だけど確かに、サフィラの心の片隅には、この思いがあった。
血が足りなくて、くらくらする。理不尽への怒りが、サフィラを突き動かしていた。
「神様なんか知らない。僕は、僕自身の力だけで生きていける。あなたに、魂なんてくれてやらない!」
目の辺りが熱い。しんしんと冷え込む深海で、サフィラはテストゥードーを見上げた。
テストゥードーは、怒るでもなく呆れるでもなく、ただ憐れむようにサフィラを見下ろしている。
「自らの信じるものを放棄したか。かわいそうに」
その声を皮切りに、海流が渦巻く。あっさりと、水流はサフィラを飲み込んだ。途端に呼吸が苦しくなり、サフィラは泡を吐き出す。
もがくサフィラを、テストゥードーはひたすら、憐憫の目で見つめていた。
「きみが神を信じないとなれば、その加護は届きようもない。私にきみは救えないようだ」
そして、サフィラに背を向けた。やがてそれは、海亀のかたちになる。どんどん白い影が遠ざかり、明瞭だった視界がぼやけていく。
(だめ、しぬ、かも)
サフィラが目を閉じたそのとき、身体を強く引っ張られた。吸盤のついた触手が身体に絡まり、引きずっていく。
(さいごは、まものに、食べられるんだ)
ちかちかと視界が瞬く。限界が近い。
(海のいちぶに、なりたいって思っていたけど、……こんなに苦しい、ことなのか)
脳裏に、これまでの人生が浮かぶ。
(ごめん。アルス。クラヴィス……戻れそうにない)
サフィラが目を閉じた、次の瞬間。
ぽん、と空中へ投げ捨てられた。脳が混乱し、世界が絵具をぶちまけたようにぐちゃぐちゃに見える。受け身も取れずに地面へと叩きつけられ、衝撃で水を吐き出した。
激しく咳き込むサフィラを、「無様だな」と見下ろす影がある。
「お前が、あの忌々しい神官どものすえか」
サフィラは、必死の思いで呪文を唱えて明かりを灯す。まず長い黒髪が、艶やかにその光を反射した。深い闇を称えた黒い瞳が、ひたりとサフィラを見つめている。裸に獣の毛皮をまとった美しい男が、そこにいた。
「俺はウィータ。もう、これだけで分かるな?」
咳き込みながら、サフィラは必死に身体を起こす。反射的に、祈るように指を組んでいた。
「魔物の王、かつての死を司る神、ウィータ」
「そうだ。正しく俺を認識できている」
ウィータはサフィラの肩を掴み、姿勢を正させた。そしてまじまじと瞳を見つめる。
「海の色だ。お前たち一族は母さんを殺したくせに、生意気だな」
「は、はぁ」
ぺたぺたとサフィラの頬を触り、しばらくして飽きたのかサフィラの前であぐらをかく。
「お前、どうしてここへやってきた。ここは海の墓場の底だぞ。その上、これまで感じていた、忌々しいテストゥードーの加護もない」
「そ、れは」
サフィラは口ごもる。ウィータはじろじろとサフィラを見つめ、「なるほど」と顎を手でさすった。
「お前、信仰に背いたな。罰当たりめ」
罰当たり。図星のサフィラはうつむき、それをウィータの手が頬を掴んで上向かせた。
「罰当たりだが、あのテストゥードーに背いたというのは、いい。気に入った」
ウィータは、上機嫌で言う。なあ、と、サフィラの顔をのぞきこんだ。サフィラは負けじと暴れ、その手から抜け出そうとする。
「罰当たりがなんだ。僕を助けてくれない神様なんて、知らない……!」
「ああ、なるほど。この手の連中は厄介なんだよなぁ」
ウィータはサフィラから手を離し、大げさにため息をついてみせた。手をひらひらと振る。
「俺たちは論理だ。お前たちを見守る超常の存在と思われてはいるが、その実、人生をなんとかするのはお前たちの仕事だ」
やれやれ、と肩をすくめるウィータ。でも、とサフィラは食って掛かる。
「僕を海の中で呼吸ができるようにさせたし、海流を操れるようにもさせた。それが超常の存在でなければ、一体何がそうなんだ」
「いや。それもまた、神の側面で合ってはいる」
はらり、とウィータの耳から、ひと房の髪がこぼれる。
「だが、それが全てではない。神もお前も、世界の一部でしかない」
「ずっと観念的な話をしてごまかさないでください。もっと分かりやすく言えないんですか」
毒づくサフィラに、「わきまえろよ」とウィータは言った。
サフィラは反抗的に目を眇め、「わきまえない」と噛みつく。
「こんなのが神官の末裔なんて、先祖たちが見たらさぞ嘆くだろうな」
まあいいや。ウィータはおざなりに言って、「取引だ」と膝を叩いた。サフィラは、警戒するように身を縮こまらせる。懐を探ると、杖はまだ持っているようだった。
「お前、マーレを復活させろ」
ウィータが、何でもないことのように言った。
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