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44. ことわりとは(クラヴィス視点)
警戒するように、クラヴィスが体勢を低くする。イーデムはそれを気にした風でもなく、病室の扉を足で閉めた。
「とりあえず、これはあなたのものなので、お渡ししておきます」
そう言って、無造作に鎧と剣を詰めた箱を置く。一応彼なりの気遣いらしく、古い布が敷き詰められていた。
「……お前は何者だ」
低い声で尋ねるクラヴィスに、「そうだなぁ」と彼は考え込む素振りを見せた。首を傾けると、再び青い瞳がのぞく。
「ときに、それは言葉です」
「は?」
クラヴィスは思い切り顔をしかめた。イーデムはなおも続ける。
「あなたも聞いたでしょう。この世の理とは言葉で説明できるものであり、説明できなければ力を失うと」
クラヴィスの右手が、無意識に腰の左側へと添えられた。イーデムは「物騒だな」と笑いつつ、ぺたんと床に座り込む。
「俺の正体はお察しの通り。何者であるかまでは言いません、俺も忘れたので」
「忘れた?」
「ええ。自分が何者であるか語るための言葉を忘れ、とうとう存在を忘れました。最近は、適当に名乗っています」
また訳の分からないことを言い出した。サフィラが顔をしかめると、イーデムは軽く笑う。
「たぶん、俺自身が何者であるかを思い出したら、俺という存在は消えるのでしょう」
クラヴィスは皮肉に口の端を歪めた。足を組み、頬杖をついて頭をかく。
「神というものは、みんな具体的な話ができないのか?」
「そりゃあ、観念そのものですから。そちらの話し方の方が得意なんですよ」
イーデムはそう言って、ぱんと手を叩いた。仕切り直し、ということらしい。
「サフィラがさらわれましたね」
その言葉に、クラヴィスの顔から表情が抜け落ちる。イーデムは「これはお節介な老人からの助言です」と、自身の胸を掌で叩いた。
「正しく神を殺してください。酔わせず、不意を打たず、正々堂々と、神自身が死を自覚できるように」
「どういうことだ」
クラヴィスが顔をしかめると、「言葉通りの意味ですよ」とイーデムは無表情に言う。
「神自身が死を認められる殺し方でなければいけないのに、マーレは卑怯な殺され方ばかりしてきた。だから、夢うつつに正気を失っている」
その真昼の海のような瞳が、苦い笑みで暗く歪んだ。
「俺はそういう因果を背負っているみたいで、たぶん決定的なことに気づけていない。周りにも『俺がいる』と説明できてしまうから、俺はここにいるんです」
「何の話だ?」
眉をひそめるクラヴィスに、「何の話でしょうね」とイーデムはうつむいた。長い前髪が揺れて、表情を隠す。
「俺には分かんないです」
さてと、とイーデムは立ち上がった。そして迷いなく踵を返し、後ろ姿でクラヴィスへ手を振る。
「じゃあ、後はよろしくお願いします。俺たちの不始末を押し付けてすみません。勇者殿」
「おい、待て。お前は何者だ。どうしてそんなことを知っている」
クラヴィスが追いかけようとすると、するりとその身体は扉の向こうへと消えていった。扉を開けて「イーデム」と呼んでも、そこには誰もいない。
「……なんだったんだ。あいつ」
後にはただ、波の音だけが残っていた。
クラヴィスは、自身に与えられた鎧を取り上げる。つやつやとしたガラス質のそれは冷たく光を反射した。
(特に、文様なども描かれてはいない)
剣の方には、シーサーペントの意匠が鞘へと彫られているくらいだった。ただ大切にされてきたようで、よく磨かれて艶のある拵えをしている。
持ち主の、この武具一式への愛情がうかがえるようだった。
(ウィータは、俺にこれを託した)
この武具を持っていたのはウィータだ。クラヴィスへと呼びかけ、それに彼は応えた。その見込みがあると思ってくれた、ということなのだろうが。
(テストゥードーを、一体どうすれば殺せる。ウィータには「矛盾を突け」と言われたが)
さっぱり分からない。こういう理論的な分野は、サフィラの得意分野なのだ。
(サフィラがここにいてくれたら、彼が何か閃いたんだろうか)
恋しい。しかし、サフィラはここにいない。クラヴィス自身が、なんとかするしかない。
(テストゥードーは矛盾を抱えている。矛盾は神にとって綻びとなりうる。そして神自身が死を自覚できなければ、神は死なない)
頭がこんがらかってきた。そもそも、剣で切りつけても傷ひとつ付かなかった相手だ。
(……それではなぜ、剣で切り付けても傷一つ付かなかったんだ)
ふと、クラヴィスの頭に疑問がよぎる。テストゥードーは確かに目の前にいた。
だから剣で切り付けても傷ひとつつかなかったのは、明らかに異常だ。
(神だから傷が付かないのか?)
神はことわりであり、説明できるものでなければならない。
ウィータの言葉が、頭の隅で光るように思い出される。
(逆だ。俺が、テストゥードーを倒すための理論を組み立てれば、届くかもしれない)
クラヴィスは、鎧と剣を見下ろした。試しに剣を抜き、指の腹に刃を押し当ててみる。
それは、クラヴィスの皮膚を切り裂かなかった。
「……もしかして」
クラヴィスの頭に、ひとつの仮説が組み立てられていく。
(俺たちの肉体は存在する。神はことわりであり、その肉体には意味しかない。物体として存在しないということか?)
クラヴィスは、口元に掌を当てて考え込んだ。
(でもここにはマーレの身体でできた剣と鎧が存在していて、ややこしいな……!)
頭の中で言葉が絡まる。それでも思考はもつれるように、希望を見出そうとしていた。
「この剣は、神の身体でできている。……ならば、神へも、干渉できる? この剣なら、テストゥードーの肉体に、傷をつけられる?」
分からないことだらけだ。これだって、クラヴィスがこじつけた屁理屈かもしれない。
しかしクラヴィスは、理論を見つけた。神殺しのための、か細い、一筋の道を。
「殺す」
クラヴィスは、明確な意志を持った。
不死の存在を殺す。そして、二度と戻れないほど変質させる覚悟を決めた。
そうしてまで、クラヴィスは、サフィラを取り戻したいのだから。
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