8. ケートス

1/1
前へ
/50ページ
次へ

8. ケートス

 揺れる船からサフィラが落ちかける。クラヴィスは空中歩行で飛び上がり、サフィラの腕を引いた。 「大丈夫か!」 「だ、いじょうぶ!」  引き上げられる。さっきまでサフィラの足のあった空間を、ケートスの口から生えた大きな牙が横切った。  アウクシリアはひとり船に残り、帆を引っ張って転覆しないように操る。 「船はこっちでなんとかする。そっちはお前らでなんとかできるか!」  サフィラが「はい」と大声で叫ぶ。彼はややふらついたものの、空中歩行で立ち上がった。ケートスをじっと、舐めるように観察する。 (かなり興奮している。もしかして、身体が傷ついてはいないか?)  ケートスの背には、銛が刺さっている。そしてすぐそこには、転覆した船があった。周りには空中歩行に失敗したのか、中途半端に水面に浮いて這いつくばっている人影が見える。  サフィラは苦々しく口元を歪めた。空中歩行は決して難易度の低い魔法ではないが、どんな状況でも扱えるほどに熟達しなければ、魔物に立ち向かう者としてふさわしいと言えない。 (冒険者派遣ギルドも、ああいう初心者は弾けばいいのに)  サフィラは内心毒を吐きつつ、クラヴィスに指示を出す。 「クラヴィス。あっちの救助に行って」 「了解」  クラヴィスはあっという間に走り去り、ひっくり返った船へと向かった。乗組員を救助する彼を後目に、サフィラはケートスと相対する。  杖を取り出し、小さく息を吐いた。先端で海面を指すと、サフィラの足元からくるくると水が螺旋を描いてあがってくる。 「海の神々、海の精霊たちよ。母なるマーレ、その眷属たちにウォルプタース家のサフィラが希う」  手首の海亀のチャームが、ちりちりと風に揺れた。サフィラは杖を持つ手を上げ、人の頭ほどの大きさである水の塊をいくつも練り上げる。 「なに悠長なことしてんだ! とっととやれ、こっちは構うな!」  アウクシリアの叫びを無視し、サフィラはその水の塊に手をかざした。 「撃て」  その瞬間、水の塊から無数のつぶてが放たれる。風を切る音を立てながら水の弾丸はケートスに命中し、凄まじい轟音を立てた。水しぶきが飛び、海面が波打つ。  ケートスは警戒するように、一旦水面下へと潜った。船から離れてこちらの様子をうかがうように旋回している。アウクシリアががなりたてた。 「サフィラ、それじゃ通じねえよ! ケートスの毛皮は分厚い!」 「はい、だからこそです」  くいっと人差し指を上向かせた。ケートスの身体に、水が絡みつく。のたうつ水流が大きな気泡を吐き出しながら、その巨体を締め付けた。  ケートスは周りの海水から分離され、もがくものの、サフィラの拘束からは逃れられない。 「ごめんね」  そう囁いて、サフィラはケートスを締め付ける水流を強めた。  この世のものとは思えない咆哮が、辺りに轟く。サフィラは的確に首を締め上げた。 「すぐ楽にするから」  サフィラはぱちんと指を鳴らす。強い水圧で、ぐるん、とケートスの首が回った。  吠え立てることもなく、獣は呆気なく事切れる。その死骸はゆっくりと、海の底へ沈んでいった。 (きみに、穏やかな海底の眠りがありますように)  サフィラは自ら手にかけた獣に目を閉じ、祈った。再び目を開けると、どこからか視線を感じる。  ぞわり、と首筋のあたりの毛が逆立つような悪寒。はっと顔を上げてあたりを見渡しす。誰もいない。  近くで、とぷんという水音が聞こえた。目を向ければ、そこにはもう何もいない。ただ、静かに波紋が広がっているだけだ。 (魚かな)  何か、引っかかるような気がした。しかしその正体を探るには、あまりにも手がかりがない。 「サフィラ、こっちは終わった」  クラヴィスが駆け寄ってくる。サフィラは「こっちも」と頷いてみせ、目配せをする。 「クラヴィス、あっちはなんだった?」  彼は肩をすくめ、呆れたように言った。 「駆け出しの冒険者らしい。最近、魔物の出現頻度が高くなっているからな。懸賞金狙いかもしれないが……」  サフィラは眉間に指をやり、押さえた。首を横に振る。呆れたというか、なんというか。 「魔物は、銛でなんとかなる相手じゃないよ……それに空中歩行は難易度の高い魔法だけど、これだけはちゃんと身につけておかないと、ああなるんだ」  気を揉むサフィラに、クラヴィスは面白くなさそうに鼻を鳴らした。拗ねたようにそっぽを向き、腕組みをする。 「そうだな。だが、所詮他人だ。お前が心配することではない」 「……まあ、たしかに。彼らのことは彼らでなんとかするよね」  ため息をついて、船に乗り込んだときだ。ざっぷざっぷと船を漕いで、先ほど溺れかけていた冒険者たちがやってきた。四人組の十代半ば頃の少年たちで、びしょ濡れで船を漕いでいる。  仕立てのいいリネンのシャツが身体に貼り付き、貴金属らしき宝飾品が指や首、耳に光っていた。  やたらと身なりがいい、とサフィラは気づく。 「あの、すみません!」 「サフィラ、行こう」  クラヴィスはサフィラの腕を引っ張ったが、「はい」とサフィラはうっかり返事をしてしまった。一際身なりのいいリーダー格らしき少年が、興奮した様子で話しかける。 「めちゃくちゃ強いんですね、びっくりしました!」 「は、はぁ……へへ……」  クラヴィスがサフィラを叱咤する。 「俺以外からの誉め言葉で嬉しそうにするな!」  めちゃくちゃなことを言う。  サフィラはクラヴィスと冒険者の間で視線をさまよわせ、「気をつけてくださいね」と俯いて言った。アウクシリアは黙って、事の成り行きを見守っている。 「せめて空中歩行は習得してください。ああいうふうに総崩れになると、あなたたち自身だけでなく、救助に来た人をも危険に晒しますから」 「本当にそうです。反省しています」  彼はしゅんと肩を落としつつ、それで、と上目遣いに続ける。 「命の恩人であるあなたたちに、お礼がしたいんです」  ほう……と、クラヴィスが低い声でうなる。それを意にも介さず、その少年は言った。 「俺はフェキレ。アウレア家の傍系です」  アウレア家。テストゥードーの島々の中継地点であり、大きな繁華街を持っている島の地主だ。アウレア島は、最も豊かな島の一つである。  サフィラが驚いて「アウレア家の」と言えば、彼はにこりと微笑んだ。 「ぜひ、俺の屋敷へ。歓迎するんで」 「でも……」  アウクシリアを振り返ると、彼は肩をすくめた。 「ま、俺はどっちでもいいぜ。旗頭はお前だしな」  その言葉にまたサフィラが迷う素振りを見せると、フェキレは続けた。 「うちが支援をしている人形劇団が、今晩うちで劇をやるんです。ちょっと変わった演目をするんですが」  フェキレは得意げに、その演目を口にする。 「海底冥婚譚。母なる海神マーレと恋に落ちる、太陽の話です」
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加