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8. ケートス
揺れる船からサフィラが落ちかける。クラヴィスは空中歩行で飛び上がり、サフィラの腕を引いた。
「大丈夫か!」
「だ、いじょうぶ!」
引き上げられる。さっきまでサフィラの足のあった空間を、ケートスの口から生えた大きな牙が横切った。
アウクシリアはひとり船に残り、帆を引っ張って転覆しないように操る。
「船はこっちでなんとかする。そっちはお前らでなんとかできるか!」
サフィラが「はい」と大声で叫ぶ。彼はややふらついたものの、空中歩行で立ち上がった。ケートスをじっと、舐めるように観察する。
(かなり興奮している。もしかして、身体が傷ついてはいないか?)
ケートスの背には、銛が刺さっている。そしてすぐそこには、転覆した船があった。周りには空中歩行に失敗したのか、中途半端に水面に浮いて這いつくばっている人影が見える。
サフィラは苦々しく口元を歪めた。空中歩行は決して難易度の低い魔法ではないが、どんな状況でも扱えるほどに熟達しなければ、魔物に立ち向かう者としてふさわしいと言えない。
(冒険者派遣ギルドも、ああいう初心者は弾けばいいのに)
サフィラは内心毒を吐きつつ、クラヴィスに指示を出す。
「クラヴィス。あっちの救助に行って」
「了解」
クラヴィスはあっという間に走り去り、ひっくり返った船へと向かった。乗組員を救助する彼を後目に、サフィラはケートスと相対する。
杖を取り出し、小さく息を吐いた。先端で海面を指すと、サフィラの足元からくるくると水が螺旋を描いてあがってくる。
「海の神々、海の精霊たちよ。母なるマーレ、その眷属たちにウォルプタース家のサフィラが希う」
手首の海亀のチャームが、ちりちりと風に揺れた。サフィラは杖を持つ手を上げ、人の頭ほどの大きさである水の塊をいくつも練り上げる。
「なに悠長なことしてんだ! とっととやれ、こっちは構うな!」
アウクシリアの叫びを無視し、サフィラはその水の塊に手をかざした。
「撃て」
その瞬間、水の塊から無数のつぶてが放たれる。風を切る音を立てながら水の弾丸はケートスに命中し、凄まじい轟音を立てた。水しぶきが飛び、海面が波打つ。
ケートスは警戒するように、一旦水面下へと潜った。船から離れてこちらの様子をうかがうように旋回している。アウクシリアががなりたてた。
「サフィラ、それじゃ通じねえよ! ケートスの毛皮は分厚い!」
「はい、だからこそです」
くいっと人差し指を上向かせた。ケートスの身体に、水が絡みつく。のたうつ水流が大きな気泡を吐き出しながら、その巨体を締め付けた。
ケートスは周りの海水から分離され、もがくものの、サフィラの拘束からは逃れられない。
「ごめんね」
そう囁いて、サフィラはケートスを締め付ける水流を強めた。
この世のものとは思えない咆哮が、辺りに轟く。サフィラは的確に首を締め上げた。
「すぐ楽にするから」
サフィラはぱちんと指を鳴らす。強い水圧で、ぐるん、とケートスの首が回った。
吠え立てることもなく、獣は呆気なく事切れる。その死骸はゆっくりと、海の底へ沈んでいった。
(きみに、穏やかな海底の眠りがありますように)
サフィラは自ら手にかけた獣に目を閉じ、祈った。再び目を開けると、どこからか視線を感じる。
ぞわり、と首筋のあたりの毛が逆立つような悪寒。はっと顔を上げてあたりを見渡しす。誰もいない。
近くで、とぷんという水音が聞こえた。目を向ければ、そこにはもう何もいない。ただ、静かに波紋が広がっているだけだ。
(魚かな)
何か、引っかかるような気がした。しかしその正体を探るには、あまりにも手がかりがない。
「サフィラ、こっちは終わった」
クラヴィスが駆け寄ってくる。サフィラは「こっちも」と頷いてみせ、目配せをする。
「クラヴィス、あっちはなんだった?」
彼は肩をすくめ、呆れたように言った。
「駆け出しの冒険者らしい。最近、魔物の出現頻度が高くなっているからな。懸賞金狙いかもしれないが……」
サフィラは眉間に指をやり、押さえた。首を横に振る。呆れたというか、なんというか。
「魔物は、銛でなんとかなる相手じゃないよ……それに空中歩行は難易度の高い魔法だけど、これだけはちゃんと身につけておかないと、ああなるんだ」
気を揉むサフィラに、クラヴィスは面白くなさそうに鼻を鳴らした。拗ねたようにそっぽを向き、腕組みをする。
「そうだな。だが、所詮他人だ。お前が心配することではない」
「……まあ、たしかに。彼らのことは彼らでなんとかするよね」
ため息をついて、船に乗り込んだときだ。ざっぷざっぷと船を漕いで、先ほど溺れかけていた冒険者たちがやってきた。四人組の十代半ば頃の少年たちで、びしょ濡れで船を漕いでいる。
仕立てのいいリネンのシャツが身体に貼り付き、貴金属らしき宝飾品が指や首、耳に光っていた。
やたらと身なりがいい、とサフィラは気づく。
「あの、すみません!」
「サフィラ、行こう」
クラヴィスはサフィラの腕を引っ張ったが、「はい」とサフィラはうっかり返事をしてしまった。一際身なりのいいリーダー格らしき少年が、興奮した様子で話しかける。
「めちゃくちゃ強いんですね、びっくりしました!」
「は、はぁ……へへ……」
クラヴィスがサフィラを叱咤する。
「俺以外からの誉め言葉で嬉しそうにするな!」
めちゃくちゃなことを言う。
サフィラはクラヴィスと冒険者の間で視線をさまよわせ、「気をつけてくださいね」と俯いて言った。アウクシリアは黙って、事の成り行きを見守っている。
「せめて空中歩行は習得してください。ああいうふうに総崩れになると、あなたたち自身だけでなく、救助に来た人をも危険に晒しますから」
「本当にそうです。反省しています」
彼はしゅんと肩を落としつつ、それで、と上目遣いに続ける。
「命の恩人であるあなたたちに、お礼がしたいんです」
ほう……と、クラヴィスが低い声でうなる。それを意にも介さず、その少年は言った。
「俺はフェキレ。アウレア家の傍系です」
アウレア家。テストゥードーの島々の中継地点であり、大きな繁華街を持っている島の地主だ。アウレア島は、最も豊かな島の一つである。
サフィラが驚いて「アウレア家の」と言えば、彼はにこりと微笑んだ。
「ぜひ、俺の屋敷へ。歓迎するんで」
「でも……」
アウクシリアを振り返ると、彼は肩をすくめた。
「ま、俺はどっちでもいいぜ。旗頭はお前だしな」
その言葉にまたサフィラが迷う素振りを見せると、フェキレは続けた。
「うちが支援をしている人形劇団が、今晩うちで劇をやるんです。ちょっと変わった演目をするんですが」
フェキレは得意げに、その演目を口にする。
「海底冥婚譚。母なる海神マーレと恋に落ちる、太陽の話です」
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