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覗き込んだ体勢で、ジッと結乃を見つめたままの数秒間。この〝間〟に、結乃の心臓がまた跳ね上がる。
「芹沢くん…?どうかしたの?」
慣れない刺激に耐えかねて結乃が声をかけると、敏生はハッとして姿勢を正した。そして、思ってもいなかった言ってはならない嘘言を、思わず口走ってしまう。
「…ごめん。ちょっと、この後の仕事のことを考えてた」
これを聞いて、結乃は一気に夢の中から現実に引き戻された。敏生を煩わせる罪悪感に駆られて、結乃の方も意思に反する言葉が口を突いて出て来てしまう。
「ああ、すごく忙しいんだよね。……やっぱり、芹沢くんに迷惑かけてしまうから、ご馳走はもういいかな。忙しい人の貴重の時間を、私なんかのために使うことないし」
結乃の思考が思わぬ方へ向きつつあることに、敏生は焦りを募らせた。
「迷惑なんかじゃない!」
思わず大きな声が出てしまい、思いの外それは廊下中に響き渡ってしまった。
仕事では焦ることも怒ることもほとんどない冷静沈着な敏生の、こんな感情が表れた大声は、誰も聞いたことがないものだった。
皆が振り返って二人を見ている。
ここで注目を集めるのは、今の結乃が置かれている境遇から考えても良いわけがない。だけど、目の前にいる結乃にだけは、誤解されてはならなかった。
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