第一章 猫にまたたび

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 今さらその趣味をやめるということはないだろう。やめないならば、うちで糸を買いたくない理由があるのだ。やっぱり、私がいたらなかったから。透明のマニキュアをぬった爪が手のひらにくいこむ。  私のこわばった顔に気づいたのか、藤原さんはあわててテイカップをおいた。 「いやー、勘ちがいせんといて。うちなあ、もう目があかへんねん。白内障になってしもて」  藤原さんは、すまなそうにうつくしい銀髪の頭をかたむける。その細められた目は、すこし瞳の色がグレーがかっていた。 「そ、それは大変ですね」  もっと気のきいたことが、いえたらいいのに。祖母ならなんと声をかけただろう。 「手術すれば、なおるんやけど。うちも八十すぎや。簡単な手術やのに、たいそうに入院せなあかんて」  藤原さんは諦念をふくむ薄い笑いを私へむける。 「日常生活には支障ないし、ただ細かいもんが見えへんだけや。そやから手術はやめとこ思うんよ」  それで、レース編みができなくなったのか。レース糸は、細い。うちの店においている一番太い糸でも、直径一ミリほど。  老眼が進みこまかいものが見えない人は、ルーペをかけて編んでいると聞く。
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