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いつれの御時にか
世界は暗く、光は見えず、色を知らず、物の姿形もわからない。
それが私の全てであった。自分が麗しいか醜いか、それすらも見たことはない。
女房が着せる襲も、美しいと讃えられる見事な装飾もわからない。
私はずっと、自室に籠るだけ。
ああでも、両親も女房達も優しく接してくれているのは、唯一の救いでもあった。
変わることのない暗い世界。それが一変したのは、世間で大変人気のある噂の物語を、女房の一人が持ってきた時だった。
「姫様、噂の物語を手に入れることができました!早速字の綺麗なものに写させますね」
「噂の物語?この前話していた、宮中で流行っているという?」
「はい!姫様も気になられますか?」
女房の安曇は嬉しそうな声で話しかけてくる。よほど有名な物語なのだろう。きっと入手困難なものに違いない。
けれども、見えない私には意味がないものだ。
この間、春は曙で始まる随筆を読んでもらったが、世の中を知らない私には想像もつかないものだった。
白?雲?蛍?
知識としては知っているが、一体それのどこが美しいのだろう、と疑問を覚えながら聴くことに飽きてしまったのだ。文章がとても生き生きしていたのは良かったのだけれど。
「いいえ。私のことは気になさらないで。みんなで楽しんでください」
「姫様……」
物語一つも楽しめないなんて、なんて退屈な日々かしら。もう小鳥の囀りにばかり耳を傾けるのは飽きたのに。
すると、安曇がどこかへ去っていく衣擦れの音が聞こえた。方向からして、他の女房達の元だろう。
「皆さん、例の物語が手に入りました!ぜひ姫様の元でお聴きになりませんこと?」
私はいいと言ったのに、こういう時だけは安曇は頑固ものだな。
あらあらまあまあ、と他の女房達が集ってくるのが気配でわかる。衣擦れの音は増え、此方へ近づいてきた。
「姫様、人の顔はなんとなく想像できますか?」
「……ええ。形と位置なら、なんとなく」
昔、父から触って感じれば良い、と顔を触らせてもらったことがある。人には卵形の輪郭があり、真ん中に鼻、その下に変形する口、上には二つの目、眉、真横あたりに耳がついている。
人によって狭かったり、広かったり、鼻が高かったり丸かったり。
触れたことがあるものなら、想像できる事もある。
安曇が笑った気がした。
「それであれば十分ですよ。この物語が写すべきものかどうか、姫様に判断していただきましょう」
ぱら、と紙を捲る音が聞こえた。
見えていなくとも、周りの女房達が期待で息を呑んでいるのがわかる。
安曇は優しい声音で文字をなぞり始めた。
いづれの御時にかーーー
いつの帝の御代だったか、女御や更衣が大勢お仕えしている中で、高貴な身分ではないものの、一際帝の寵愛を受けていらっしゃる方がいた。
入内した時から、我こそはと思い上がっていた女御達は、その方を目障りな女、と蔑み妬んだ。
今まで聴いた物語と、草子と、日記と全く違う。
世界が広がる。詳細は朧げだが、見える。
闇の中にぼんやりと浮かぶ、男女二人。
そして嫌がらせをする、嫌な感じの女御達。
その更衣に、類稀なる美しい皇子がお生まれになった。
清らかなる玉、とはどれほど美しい御子なのだろう。もしかしたらこんな感じの顔かしら。目は父のように切れ長で、鼻筋は高い方が均衡が取れる。
さらに嫉妬を募らせた女御達の意地悪は、陰湿なものになっていく。
なんて酷い人たちかしら。だったら寵愛を受けている更衣の方より醜い顔にしてしまいましょう。
そんなことを想像してくすりと微笑む。少しだけ爽快感を覚えてしまった。
御息所は病気で臥せってしまったが、いつものことと思って帝は暇を取らせなかった。
五六日間に目に見えて弱々しくなっていく様をみて、母君は泣く泣く帝に里帰りを許していただく様に申し上げた。
御子は宮中に残させ、御息所を里へ帰らせた。
どうして帝は彼女の里帰りを許さなかったのだろうか。あまりにも彼女を愛しすぎたあまり、彼女自身が見えなくなってしまったのだろうか。
ここには存在しない、空想の世界に思いを馳せる。
生き生きと、人物たちの心情が心に流れ込んでくる。
両親と、自分と、数人の女房達だけの空間があっという間に広がっていく。
これを彩りというのだろうか。黒い世界に、ぽつぽつと明るいものが生み出されていく。
初めて、世界が視えた気がした。
「死ぬときも一緒、後れたり先んじたりしないと約束していたではないか」
「限りとて別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり」
帝は祈禱のために退出なさる。
夜半過ぎ、とうとう御息所は亡くなられた。
御子基、若君は何のことか分からない様子で、母との死別は悲しいものであるのに、尚更可哀想であった。
「まあ、なんと面白い」
「続きが気になりますわ」
「更衣が何とも不憫で……」
女房たちが口々に感想を言い合う。私は今まで感じたことのない高揚感を覚えていた。鼓動が高鳴る、血が巡る。
眩しいとか、煌めきとかはわからない。
しかし、今物語を聴いていた時間だけは、輝いている。生を実感する。
見ることのできない自分にもわかるほど、この物語は今を生きている。
「……たい」
安曇は姫の言葉が聞き取れずに首を傾げた。
反応を求めて、私は胸の高鳴りを抑えきれずに発声する。
「もっと聴きたい……!!」
女房達の沈黙から、唖然としているのだろう。ここ数年、書物に興味を示さなかったのだ。彼女達はそれは驚いていることだろう。
女房の一人がふふ、と笑い声を溢した。
「姫様がそこまで懇願されるとは……私達も気合を入れて写さなければなりませんね」
「そうですわね!早速取りかかりましょう」
「でも、続きを聴いてみたいですわ……」
「あら、そんなことをしていたら世も更けてしまいますわよ」
すっかり物語の虜になってしまった女房達の会話を、人目も憚らず、歯を見せ無邪気な笑声をあげて聞いていた。
それまで退屈だった日々が、かけがえのない日常へと変わっていく。
外に出かけてみた。見ることはできないが、聴覚と嗅覚、触覚を駆使して自然を、あるいは人の営みを肌で感じる。
その経験は、例の物語の想像を豊かにしていく。
身の焦がれる様な恋、というものだけは、ぴんとこないままであったが。
その物語が完結するまで、姫は何度も何度も読み聞かせてもらったという。
そして、人が変わった様に明るい性格になったのだとか。
真っ暗闇な世界に、彩りという言葉が染み渡っていく。それは「色彩」というわけではないけれど、彼女の想像力を掻き立て、豊かにしていった。
それは全て、些細な出来事からではあったけれども。
出会ってしまったのだろう。
運命の一冊というものに。
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