貸本屋ペルの魔法の書 ―愛は慎みの中に―

1/10
前へ
/10ページ
次へ
 アクロポリスの麓に広がる古い街並み。  近代的な高層建築と、昔ながらの平屋造りの家屋がひしめき合う狭い路地。  敷き詰められているのは、つい昨日まで古代人が踏んでいたかのような石畳。  二千年前と同じエーゲ海からの風が薫るその街の片隅に、不思議な貸本屋があるという。  そんな噂を聞きつけて、ベルクは都会からやって来た。  しばらく歩き回り、漸く見つけたそれらしき建物の前で立ち止まる。  漆喰の白壁が多い中、その店だけ煉瓦造りである。  小さく掲げられた看板を一瞥し、入口の木扉を引いた。  カランコロン。ドアベルが小気味良く鳴る。  木製の椅子に腰かけて書物に目を落としていた男が顔を上げ、来客へ優雅な微笑を向けた。  フェズハットと呼ばれるえんじ色の台形帽がまず目を引く。彫りが深く端正な顔立ちだ。 「いらっしゃいませ。店主のペルと申します。本日はどのような書物をお求めでしょう」  その声は大理石の手触りのように涼やかだが、見るほどに妙な雰囲気の男だ。  髭の薄い滑らかな肌が一見若く見える。だが、落ち着いた物腰からは年齢が読めない。  白いシャツの上には、繊細な刺繍の施された黒いベスト。  腰には帽子と同じ、えんじ色の腰巻布。  全体的にゆったりしたシルエットで、裾に向かって(すぼ)む黒いズボンはカフタンと呼ばれるものだ。  古い時代の伝統衣装だが、今時分、祭事や礼拝でもない平時にこんななりをする人間は珍しい。  いささか訝しみながら、ベルクは店内をじろりと見回した。  一目で全体を見渡せる程度の広さ。  壁面全体に備え付けられた書棚には、隙間を見つけるのが難しいほどに本が詰め込まれている。  彩り美しいモザイクランプがいくつか置かれているだけで、他に照明はない。窓もないので、昼間だというのに薄暗いというより仄明るい印象だ。 「古今東西、様々な書物を取り揃えております。きっと貴男の必要とされるものが見つかるはずです」  ペルと名乗った店主に再び促され、ベルクはここへ来た目的を伝えた。 「うむ。性格を変えられる本があると聞いたのだが」  それを聞いた店主は、微笑を崩さず問い返した。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加