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第1話 颶風の到来(5)
執務室を出ると、ルイフォンは早速、屋敷を発つ準備に取り掛かった。
とはいっても、荷物をまとめるわけではない。ものにこだわらない彼は、身の回りのものなら、どこででも調達できると考えている。手ぶらだって構わないのだ。
だから、彼が向かったのは仕事部屋だ。彼――すなわち〈猫〉が留守の間に行われる家宅捜索に備え、屋敷の電子的な守りを固めておくためだ。
もともと建物の内外を問わず、敷地内には山ほどの監視カメラが設置されているのだが、それでも死角は残る。それを補うため、映像の差分を自動で分析し、近衛隊のあらゆる行動を把握。不審な動きがあれば、即座に通知が来るよう設定する。
また、盗聴器の類が仕掛けられたら検知できるように、電圧や電波の揺らぎを計測しておき、あとで速やかに撤去できるようにしておく。敷地内では〈猫〉の許可のない電波を妨害する細工が施されているのだが、それはあえて解除し、近衛隊の通信を傍受可能にしておく――などだ。
これからの作業の手順を考えながら、ルイフォンは駆け込むように仕事部屋に入っていく。そして、同じく執務室から、まっすぐにここまでやって来たメイシアは、彼を追うことなく、無言で隣の彼の自室へと気配を消した。
〈猫〉の為すべき準備を理解している彼女は、何も言わなくとも、壁の向こうで彼と彼女自身のふたり分の出立の用意をしてくれているのだ。本当によくできたパートナーである。
ルイフォンは自然と緩んだ口元を引き締めると、メイシアが魔法陣と呼ぶ、円形に配置された机の輪の中に足を踏み入れた。魔術師たる彼は愛用のOAグラスを鼻に載せ、機械類と向き合う。
正式な一族からは抜けたとはいえ、大切な居場所である鷹刀を守るのだ。凶賊たちのような強靭な肉体は持ち合わせていない彼だが、彼に――〈猫〉にしかできないことがあるのだから。
無機質な〈猫〉の顔で思考を巡らせ、熟練のピアニストが如き指使いで、彼は打鍵の音律を奏でていく……。
非常時の対策は、日頃から講じていたため、作業を終えるまで、それほどの時間は掛からなかった。
ルイフォンはOAグラスを外し、机の上に置く。目の周りをほぐすように押さえ、ふと横を見た瞬間、彼は心臓が飛び出るほど驚いた。
「エルファン!?」
鷹刀一族の直系そのものの大柄な体躯が、いつも机の下にしまってある小さな丸椅子の上に優雅に収まっていた。
「作業は終わったのか?」
エルファンは氷の美貌をわずかに傾け、事務的な調子で尋ねる。
「あ、ああ……」
……いつからそこにいたのだろうか。
作業中は過度に集中するため、まるで周りが見えなくなるのがルイフォンの特徴だ。しかし、この至近距離で気づかないのは、エルファンの気配がなさすぎるからに違いない。
「あ……! 急用か!?」
ルイフォンは反射的に腰を浮かせた。
次期総帥の位を退いてから、時々、エルファンは連絡係を買って出るようになった。屋敷の者たちは「何も、エルファン様がそんなことをしなくても……」と口を揃えて言うのだが、「直接、人と顔を合わせるのも悪くなかろう?」と、今までに見せたことのないような柔らかな微笑を浮かべるのである。
「急用ではない。私が個人的にお前に用があって来た」
「え?」
「お前は作業中だと、隣の部屋でメイシアに教えてもらったのでな。終わるまで待っていた」
ルイフォンは目を瞬かせた。およそ、エルファンらしくない行動に思えた。
唖然としていると、「自分の服くらい、自分で鞄に詰めろ」と、凍れる低音が付け足される。メイシアの荷造りを目撃したからには、身内として、ひとこと言わねばなるまい、という義務感だろうか。他人に干渉しない性質のエルファンにしては、これも珍しい。
「……メイシアには、いつも感謝している」
ばつが悪くて目線を下げると、エルファンの口から苦笑が漏れた。それも、驚くほどに優しげな顔だった。
「ならばよい。――大事にしろ」
「当然だ」
鋭く断言したルイフォンに、エルファンは満足げに頷く。それから、いつもの無表情に戻り、ぐるりと周りを取り囲む機械類を見やった。
「お前も、〈猫〉の仕事、ご苦労だったな。鷹刀のためにすまない。ありがとう」
「感謝されることじゃない。これは〈猫〉が為すべきことだ」
そして、唇を噛み、あとで詫びねばと思っていたことを付け加える。
「それより、〈猫〉は鷹刀の諜報担当であるにも関わらず、摂政の動向を掴むことができなかった。――失態だ」
実は、初めに報を聞いたときから、密かに落ち込んでいた。
エルファンが掴むことのできた情報を、ルイフォンは手に入れられなかった。理由は分かっているのだが、それでも口惜しく思う。
「仕方ないさ。お前はクラッカー――電子化された情報に特化した情報屋だからな。摂政が、お前と同じ特技を持ったセレイエを警戒している現状では、重要な情報は電子化されない。それでは何もできまい」
「……その通りなんだけどさ」
ルイフォンは、ふてくされたように答える。どうしようもないとはいえ、〈猫〉が情報屋として役に立たないのは致命的だろう。
「気に病むことはない。我々は〈猫〉に助けられている。お前のおかげで、電子的な屋敷の守りは万全なのだ。……だから、私も安心して、事情聴取に出掛けられる」
まっすぐに向けられた、相変わらずの氷の美貌。
――なのに。どこか、いつもと違った。
「エルファン……?」
「……ルイフォン」
艶めく低音が、ためらうように彼の名を呼んだ。
「……私は、お前の…………」
確かに、何かを言いかけた。
けれど、エルファンは途中で口を閉ざし、穏やかに口の端を上げる。
「なんでもない」
「エルファン?」
「私も、私にしかできないことをしてくる――というだけだ」
「え?」
そして。
まるでなんの予備動作もなく、ごく自然にエルファンの手が近づいてきた。
癖の強いルイフォンの前髪を指で梳き、くしゃりと撫でる。
「!?」
それは、ルイフォンの癖で。
もともとは、母の癖がいつの間にか移っていたもので。
母は、それを誰から――。
「作業中のお前の横顔……キリファに似ていたな」
エルファンは愛しげに目を細めると、立ち上がった。そのまま、ゆっくりと広い背中が部屋を出ていく。
ルイフォンは、何故か呼び止めることができなかった。
エルファンが彼を訪れた目的である『個人的な用事』とは何か。結局、分からずじまいであった。
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