第一章「新芽の囁き」

2/3
前へ
/32ページ
次へ
 ある晴れた、明るい夕方。琴音が明日香を迎えに保育園の門をくぐると、たくさんの子供たちが園庭で遊んでいた。かけっこをしたり、滑り台で滑ったり、クライミングのホールドが取り付けられた斜めの壁板に登ったり。  明日香がいないかと見渡すと、いた。やっぱり、いつもの花壇だった。琴音もいつも通り、声をかける。 「明日香、お待たせ。帰ろっか」  しかし、明日香は花を見つめたまま微動だにしない。 「明日香ちゃん。おうちに帰りますよ~。」琴音は自分の娘の頭をヨシヨシしながら、再び声をかける。 「あたし、お花さんとお話してるの。」明日香は相変わらず花を見つめたまま、素っ気なくそう答えた。 「うん・・・了解しました。じゃあ、お母さん、教室の近くで待ってるね。」琴音はそう言って、園舎の出入り口のほうに足を向ける。こんな雰囲気の時の明日香に、琴音は何だか逆らえなかった。  園舎の入り口には少し立派なクスノキが植えられていたので、その下で時間をつぶすこととした。近づくと、その芳香に包まれて癒される。少し甘い、クスノキの香り。  遠目に明日香を眺めると、相変わらず花の目の前で微動だにしないままだ。ただ、その表情はちょっとずつ変化しているようだ。微笑んだり、悲しそうな顔をしたり。でも、だいたいは睨めつけるような表情だ。たぶん、真剣に花の言うことに耳を傾けているんだろう。でも、表情はちょっと怖い(笑)。  おとなしい自分とひたすら優しい夫の間に生まれた子なのに、明日香は強気で、活動的で、好戦的だ。自分の意見をズバっと言うし、やると決めたら誰も止められない。頼もしいと思う反面、琴音は子育てをちゃんとできているのか、いつも不安だった。  そんなことが頭によぎりながらも、スマホでも見ながら時間をつぶそうかなと思い、何気なくクスノキの木に触れる。・・・と、その瞬間に、クスノキのほうから琴音に声をかけてきた。  <ムカシト、オナジネ>  昔と同じ?何のこと?そう思ってクスノキのほうを向くと・・・クスノキが記憶している過去の映像が、琴音の頭の中に流れ込んできた。光が溢れて視界が一瞬、消える。  ーーーーー目が慣れてくると、今よりも背の低いクスノキの若木の横に、女性が立っているのが見える。私のお母さんだ、と琴音は思った。  園舎や遊具、園を取り囲むフェンスなどは今とは異なるが、その映像は明らかに、同じ保育園のものであった。  その女性は遠くの一点を眺めている。もちろん、それは幼い琴音であった。明日香と同じように、花の前にうずくまって会話をしているようであった。明日香と違って幼い自分の表情は感情に乏しく、かろうじて弱々しく微笑むことができているくらいであった。  こんな自分を、母親はじっと待っていてくれてたんだ。優しい表情で、ただじっと待ってくれていた。でも、いまの私なら、その表情も理解できる。  琴音がそう思うと、クスノキが見せてくれた映像は、ぷつりと途切れたーーーーー  植物の言葉が分からなかった母親から見たら、花と会話していた自分自身だって不思議な存在だったんだろうなぁと思う。でも、そんなことは些細な事。我が子が可愛いことに変わりはないんだ。  明日香も、明日香らしく育ってくれたらいい。そう思うと、琴音はなんだか気が楽になった。  君のおかげで大切なことに気づけたよと、もう一度、琴音はクスノキを優しくなでた。  でも、ちょっと待って。私はこの保育園に通っていなかったのではと思う。幼稚園の記憶はあるけれど、保育園の記憶はない。母からも聞いていなかった。だとしたら、さっきの映像は何だったんだろう・・・  琴音はそんな思索に迷い込みそうになったが、気づくと、明日香が足元に立っていた。彼女は帰る準備が万端な表情をしている。 「コトリママ、帰ろ~」 「あ、明日香。お話、終わったんだね。じゃあ、帰ろっか」  そうして、母と娘で手をつないで、保育園を後にした。  園を出てすぐに、琴音は自分の疑問を明日香に打ち明けてみたのだが、思わぬ話の展開を見せた。 「ねぇ、明日香。さっき、不思議なことがあってね。お母さん、この保育園には通っていなかったはずなのに、通ってたよってクスノキの木が教えてくれたんだよね」  すると、明日香は何を言っているの?という顔で「小さいコトリママ、保育園、来てたよ?」と答えた。 「え?」 「おうちの椿さんが、小さいコトリママと、お姉さんのコトリママと、もっともっとお姉さんのコトリママのこと、教えてくれたもん」  一瞬、思考がこんがらがったが、琴音は状況を理解した。・・・家の椿の木が過去の記憶を明日香に伝えていたんだろう。そこで知った幼い琴音の姿を保育園のクスノキからも見せてもらったんじゃないかな。  でも、私は同じ椿の木と、そんな深いコミュニケーションをとったことがない。もしかしたら、自分よりもこの子のほうが植物と対話する能力が高いのかもしれない。自分よりももっと自由に植物と会話し、植物から自由に過去の映像を見せてもらっているのかもしれない。  堂々と力強く自分の手を引っ張って前へと進む明日香の後姿を見て、改めて、この子の持ち味を生かしてあげなくては、と琴音は思った。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加