第五章「草木花の音階」

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 数週間前。火曜日の夕刻。  奈良市内の歴史的景観地区、ならまちに位置する「ときじく薬草珈琲店」では、店長の関口葵がオーナーの琴音と店内の片づけを行っていた。葵は数週間前に店長を任されたばかりだった。 「あ、そうだ。葵ちゃん」思い出したように琴音がつぶやく。「ん?」と首をかしげる葵に向かって言葉を投げかけ続ける。 「先週末に花言葉ナイトのことで電話の問い合わせがあって、その人、火曜日に店に来るかもって言ってたのを伝え忘れてた」 「え・・・、あのイベントのことで問い合わせがあったんですか?結構、こじんまりと集客したから、知っている人も少ないと思うんだけどなぁ」 「だよね・・・男性の方だったんだけど、何を知りたいんだろうね」 「ですね」  そして、しばらくして、店の入り口の扉がガチャリと開く。顔立ちの整った、銀髪の男性が店へと入ってきた。 「いらっしゃいま・・・」と言いかけた葵だったが、入ってきた人物を目にして息を呑む。「うそ・・・」店に入ってきたのは、葵が大好きなシンガーソングライターだった。 「もしかして、奥野ヒロユキ・・・さんですか?」 「はい、本日、関口葵さんにお会いできたらと思って来させていただきました、奥野です。あ、葵さんでいらっしゃいますか?」 「はい・・・」  憧れのアーティストの突然の訪問。しかも、自分に会いに来てくれたというシチュエーションに脳が追い付かない。テンパりながら、ヒロユキに席を勧める。  呼吸を落ち着かせようとカウンターに入ると、琴音がどうしたの?という感じで眺めてきた。 「琴音さん・・・、今いらっしゃった方、私が大ファンのアーティストなんです。うわぁ、めっちゃ緊張するよぅ・・・」 「そうなんだ。葵ちゃん、良かったじゃん」 「そりゃめっちゃ嬉しいですけど・・・ふぅ」  深呼吸をして呼吸を整えた葵はヒロユキから注文を受け、琴音にそれを通してから、ヒロユキの隣のカウンター席に腰を下ろした。 「改めまして、ときじく薬草珈琲店の店長、関口葵です。あの・・・、ヒロユキさんってお呼びして良いですか?」 「えぇ、ぜひ!」 「うわぁ、やばい・・・」 「えっ、どうされました?」  挙動不審な葵に、ヒロユキはクスッと笑ってしまう。 「私、ヒロユキさんの大ファンなんですよ・・・」 「え、そうなんですか。めっちゃ嬉しい」 「『翼を広げる夜』で、君は一人じゃない~のところ、あるじゃないですか。あそことか、特にめっちゃ好きなんです。昨日も聴きました。」聞かれてもいないのに、細かい話をしてしまう。 「なるほど~。葵さんはあんな感じがお好きなんですね。あの箇所ではメジャーセブンスコードで印象付けしているんですけど、葵さんの好み、記憶しました」 「え~、やばい・・・」  ははは、と優しく笑うヒロユキの明るいオーラが店内に広がる。 「ふぅ。それで、ヒロユキさんは花言葉ナイトのことでお店にいらっしゃんですよね?」 「うん、そうそう。僕のファンの方から、そのイベントがめっちゃ良かったって教えてもらって。めっちゃ泣いたって言ってました笑」 「・・・そのファンの方のお名前、もしお分かりでしたら教えていただけますか?」 「確か、山科さんだったっけ?」 「あぁ、真帆さんですね」 「そうそう。真帆さん」 「真帆さんもヒロユキさんのファンだったんだぁ・・・」 「よくライブにも来て下さってますね」 「分かりました。・・・では、ヒロユキさんに花言葉ナイトのこと、簡単にご説明しますね」  葵が花言葉ナイトのことを語り、ヒロユキは琴音から受け取った薬草珈琲を片手にしながら、その声に耳を傾ける。そんな穏やかな時間が数分間ほど続いた。 「・・・なるほど。参加同士で心の痛みを共有しあって、最後に花言葉の力で癒されるイベントって訳ですね。」葵の話をヒロユキがまとめる。 「うん。そんなイベントでした」 「・・・ねぇ、葵さんって、どうしてそのイベントをしようと思ったの?」 「誰かを救うって言ったら大げさだけど、自分が何かをして、それで誰かが幸せになってくれるんだったら、それは自分にとっても嬉しいことだなって思って。でも結局、私自身が参加者の皆さんに癒しをもらっちゃったんですけどね笑」 「それ、めっちゃわかる。音楽やってても、最後は結局、自分自身が癒されてるもんな」 「そうなんだ・・・」 「そうそう」  ヒロユキと波長の合う感覚を、葵は心の中に感じ取った。  と、気づくと、二人の後ろに琴音が立っていた。少し申し訳なさそうに、葵に声をかける。 「ごめん、葵ちゃん。そろそろ私はあがろうかと思うけど、葵ちゃんはもうちょっと話してる?」  閉店時間のことを知り、ヒロユキは慌てて立ち上がる。 「すみません、閉店前のお忙しい時間に居座ってしまって」 「そんな・・・」全然大丈夫なのにという顔で、葵は首を横に振る。 「あの、もし葵さんさえよろしければ、お休みの日など、どこかでもう少しお話しませんか?ちょっと話し足りないかなぁって思って」 「嬉しい・・・、是非」 「美人の葵さんと二人ってのが、ちょっと緊張するけど笑」 (緊張するのは私のほうだよ・・・)と思いながら葵もなんとか笑顔を返す。  ちょうど次の日(水曜日)が二人とも空いていたので、大和郡山で会う約束を取り決めた。そして、ヒロユキは丁寧にお辞儀をして、店を後にした。 「琴音さん、これ、夢じゃないですよね。大好きなアーティストといきなり出会って、遊びに行くことになってしまって」 「実は夢なのかもね笑。でもいいじゃん。楽しんでおいてよ」 「私、頑張ります」  何を頑張るのかは自分でも分からなかったが、葵はヒロユキと話をしたいことを整理だけしておこうと思った。
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