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第一章「新芽の囁き」
保育園へと続く道。色白で少し儚げなオーラのある母親と、顔立ちのはっきりとしたエネルギーの塊のような娘が手をつないで歩いている。
母の手をぐいぐいと引っ張って前へと急ぐその5歳の娘は、くるりと頭を母のほうへと向けて大きな声で言う。
「コトリママ、また、あの声が聞こえたよ」
琴音(ことね)と明日香(あすか)。それが、その母娘の名前だ。琴音は奈良で薬草珈琲をテーマとしたカフェを営んでおり、現在、出勤前。娘の明日香を保育園へと送る道中である。風が凪ぐと、佐保川の水の流れが微かに耳に入ってくる。
いつもと同じ道・・・のはずなんだけど、明日香が「声が聞こえる」と言う日は、少し印象が違っているように感じられる。道を表現する言葉としては不適切な気がするんだけど、なんだか“切実”な印象。
でもそんな感覚は、保育園に到着するといつも消え去ってしまう。連絡帳を出して、コップを並べて、手ぬぐいをタオルかけにかけて、他の子供やお母さんと挨拶をして。そんな風に、日常の慌ただしさが始まってしまうからだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
忙しいランチタイムを切り抜け、カフェタイムには新しいお客さんの接客をしたりしながら、あっという間に夕方を迎えた。最近は、なんだか時間が経つのが早い。
琴音が経営する「ときじく薬草珈琲店」は、ならまちと呼ばれる歴史的景観地区にある。数百年前から残る町家の格子窓が夕日に美しく映える。そのエリアは琴音の自宅からおよそ徒歩30分の場所となる。朝は南へ30分、夕方には北へと30分ほど歩く訳だ。
この日は荷物が多かったため、明日香を迎えに行く前に自宅へと立ち寄ることとした。大きな椿のある白壁の一軒家。一時期、大学生に部屋貸ししていたことはあるが、そこはずっと琴音が幼少期から育った家でもある。
「ただいま~」琴音が椿の木に声をかけると、椿も淡い輝きを発しながら琴音に挨拶を返す。<オカエリ>
そう。琴音は植物の言葉が分かる女性だった。そして、娘の明日香も同じ能力を持っていた。ただ、そんな信じがたい話を誰も信じないことから、琴音も明日香も平穏な日常を送り続けていた。
再び家を出て、保育園に向かう。そして数分ほど歩いて、琴音は保育園の門をくぐった。二階へと上がり、すみれ組の教室へと入る。明日香の姿を探す間もなく、すぐに、明日香のほうから近づいてきた。
「コトリママ、帰ろ」
「明日香~。お荷物を取ってくるから、ちょっと待ってね。」琴音は明日香の頭をヨシヨシしてから、コップや手ぬぐいを慣れた手つきで回収。ただ、その横に誰かの気配を感じた。
ぱっと顔を上げる。保育園の先生だ。
「明日香ちゃんのお母さん、こんにちは~。お疲れ様です」
「こんにちは~。今日もありがとうございます」
「いえいえ~。あの・・・ちょっと聞いてもらってもいいですか?」
「あ・・・明日香、何かしましたか?」琴音は少し不安になる。
「いえ、その逆なんです。今日、美波ちゃんが稲穂ちゃんにお弁当のウサギちゃんのスプーンを取られたって大騒ぎになって。二人とも大泣きして収集がつかなかったんですけど、明日香ちゃんがベランダに出て、庭の端っこを指さして『あっちにスプーンある』って教えてくれたんです。そこで他の先生に園庭に探しに行ってもらったら、スプーンがあって」
保育園の先生は目をキラキラさせながら話を続ける。「明日香ちゃんにどうして知っていたのかを聞いたら『お花さんたちが教えてくれた』って言って。そしてお花畑のほうを指さしてたんです。お花さんが教えてくれたの?って聞いたら、『うん』って言って。で、明日香ちゃん探偵さんだね~ってなったんですよ。」先生はもう、満面の笑みである。
「そうなんですね・・・。でもスプーンが見つかって良かったです」
「先生、探偵さんって何のこと?」明日香も割り込む。
「明日香ちゃん、探偵さんは困った人を助けてくれる人なんだよ」
「じゃあ、あたしも探偵さんになって、困った人、助けてあげる。」そう言う明日香の顔は、誇らしげであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
家に帰ってから明日香に話を聞くと、スプーンが二階から飛んできたと、園庭の花々が騒いでいたらしい。
「明日香、お花さんとお話できること、また、保育園のみんなの前で言ったの?」
「うん。だって、あたし探偵さんなんだもん」
「そうだね・・・笑」
保育園の連絡帳をめくると、そこにも探偵のエピソードがぎっしりと書かれていた。先生にとっても、よほど面白い出来事だったのだろう。
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