坂下の蘇生

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僕は、親戚のおばさんを車に乗せて、田舎道を走っていた。 おばさんは、もう遥か昔に亡くなった僕の父親のいとこに当たる人で、陽気で気立ての良い人だ。昔から変わっていない気がするが、もう、後期高齢者の年齢に差し掛かったという。自分も43歳なのだから、不思議ではない。 今日は、僕の伯父さん———父のお兄さんの一周忌の法要があり、田舎に帰るため、ついでに同じ市内に住むおばさんにも乗ってもらうことにした次第だ。去年亡くなった伯父さんとも、おばさんはいとこ同士になるわけで、幼少期はよく一緒に遊んだらしい。 おばさんは、僕のことについては、あまり触れない。「貴行くん、仕事は今忙しいの?」くらいで、それ以外、あまり訊いてこないことは、ありがたかった。 僕はかつて、大手の文具メーカーに新卒で入社し、経理部門に配属された。当時、親戚中から「良いところに入ったね」と賞賛の言葉を浴びたものだ。 しかし、入社して10年が過ぎた頃、会社の上司に横領が発覚し、一時、全国ニュースにもなった。その上司に、僕は特に可愛がってもらっていたし、よく飲みに連れて行ってもらっていた。尊敬もしていたし、目指す大人像でもあった。 その上司が巧妙な手段で犯罪を犯した。このときもあのときも、僕は騙されていたのか、もしかしたら片棒を担いでいたのではないか、という焦燥感、全く気づけていなかった自分への失望、信頼という感情が根こそぎ倒されたような心許なさ、悪事を働く人間に可愛がられていたという自分という存在への疑問…… もう同じところで今までのように働ける気がせず、悩んだ末に退職を決めた。 ———純粋すぎたんだよな。もうちょっと僕が図太い人間だったら… そんなふうに後悔してしまうのは、その後の再就職が思うようにいかず、いわば、坂道を転がり落ちるような人生となってしまったからだ。 数字に強いのをいかしたくて、銀行や、やはりメーカーの経理などをいくつか受けた。 しかし、あの横領の発覚した会社の経理部門を、事件の1ヶ月後に退職している、ということに後ろめたさを感じており、面接で退職理由を訊かれた際は、毎回しどろもどろになった。 それで、怪しむ面接担当者もいたと思う。 不器用で、世渡り下手な自分に嫌気が差した。 退職時33歳だった僕は、その当時付き合って1年が経っていた彼女との結婚を視野に入れていたのに、再就職がうまくいかないことで自暴自棄になっていき、彼女はあっさりと僕の元を去った。 1年くらい働かなくても大丈夫な蓄えがあったが、なかなか仕事が決まらないために不安が募っていき、たいして興味があったわけでもない、タクシー会社の契約社員になった。 運転は好きだし、土地勘もある場所だったから、適性がないこともなかったはずだが、雨の日以外はなかなかお客さんをつかまえられず、想像以上に神経をすり減らした。 ドライバーに課せられているノルマを一度も達成することができず、わずか半年で、自主都合退社せざるを得なかった。 文具メーカーにずっと居たら良かったのに。 …本当に馬鹿なやつだよな。 自信やプライドもへし折られて、葬儀社、ガソリンスタンド、運送会社などを渡り歩くも、結局どこにも落ち着くことができなかった。 今はコンビニと、夜間の弁当工場のアルバイトを掛け持ちしながらなんとか生計を立てている。気づけば10年間、結婚はおろか、彼女もできずに40を過ぎてしまった。 「はい、仕事はぼちぼちですね…」 僕はおばさんにそう答えながら、ため息をつきそうになるのをこらえた。 「そういえば志織がね、あの子の息子はもう6年生になってね。今、数学検定の5級にチャレンジしてるみたいで、貴行くんに会わせたい、ってずっと言ってるのよ」 「…あ、そうなんですか」 数学検定…僕は、一番上級の1級を大学時代に取得した。それで就職もうまくいったんだ。それが今は…全くその資格をいかせていない。宝の持ち腐れほどキツいものはない、と思う。 そして——— 志織ちゃん。 その名前を聞いて、脈拍が少し速くなったような気がした。 長男くん、確か名前は瞬太くん…もう小6か。 あれから、もう12年も会っていないってことか。 他県に嫁いだ志織ちゃんは、12年前に里帰り出産のために故郷に戻ってきた。 志織ちゃんと僕は同い年で、小さい頃は、親戚の集まりで年に数回は顔を合わせていた。 中学生、高校生になるにつれて、部活や受験などで皆が集まれることが少なくなり、疎遠になっていった。 大学生のとき、僕の父親がガンで亡くなった。 葬儀で志織ちゃんに久しぶりに会ったとき、いつも明るかった志織ちゃんの神妙な顔を見て、不謹慎にも思った。 志織ちゃん、綺麗になったな——— それからも何度か法事で顔を合わせ、気づけば志織ちゃんが気になる存在になっていた。 しかし、親戚の間柄で色恋沙汰など敬遠されるだろうと、僕は思いを伝えるどころか、あまり顔を見たり話したりしないように努めた。 でも、ふと顔を上げると、彼女とよく目が合った。そして、それをお互いなかったことのように振る舞った。 彼女が29歳で結婚したときは、結構ショックを受けた。 そうか、志織ちゃん、結婚しちゃったのか。 涙こそ出なかったが。 その2年後、里帰り出産で彼女が戻ってきたときは、僕は意を決して会いに行き、赤ちゃんを抱っこしたり、あやしたりとさせてもらった。 「父親の予行練習」をさせてもらったような気にもなった。 志織ちゃん、お母さんになったんだね。 もうこのときには、ショックよりは、感慨深い気持ちの方が強かった。彼女は、お母さんになっても、やっぱり綺麗だった。 志織ちゃん、幸せそうだな。 そう思って、心の中でやっと、彼女とお別れした。 「実は志織ね、あの子離婚するのよ」 おばさんは、おもむろにそう言った。 先ほどとは比べ物にならないくらい、脈拍が速くなるのを感じた僕は、ハンドルを慎重に握り直した。少し汗ばんでいる。 …志織ちゃん、幸せじゃなかったのかよ。 この12年で何があったんだよ。 貴女が幸せに暮らしていることを想像して、僕はなんとか気持ちに折り合いをつけてきたんだよ。今更、困るよ。 自分でも信じられないほど、動揺していた。 彼女に無性に会いたくなった。あの生まれたてホヤホヤだった瞬太くんにも。今、どんな生活を送っているのか。 ———なんて、人のこと言えないよな。 すっかりバイト三昧で、貧乏暇なしの自分など、彼女たちに合わせる顔もない。ましてや、数学検定の話など… 僕は今この瞬間ほど、この10年の自分の歩みを悔やんだことはなかった。 もう少し…もう少しだけ、もう一度高みを目指せないだろうか。 そこから30分ほどして、やっと伯父さんの家に着いて、車を降りたとき、僕はおばさんに訊いた。 「次はいつ、志織ちゃん帰ってきますかね」
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