芥の天使は黒に染まる

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白紙の未来(ページ)を黒く穢すことで世界(ストーリー)は進む。清らかでいては変われないのなら汚れるしかないだろう。 人の形をした闇夜のような存在だった。 「はじめまして。名無しの人外さん」 白い雲海の上に少女は死と退廃を連れて現れた。 伸ばした黒髪は艶やかで透き通るような肌は白磁。桜色の唇を悪戯めいた微笑に歪ませて、金の瞳には無邪気さを浮かべている。纏う衣服はゴシックロリータ、フリルとレースで飾られたドレスは重々しく高貴な黒。細くしなやかな足には無骨な黒い厚底ブーツを履いていた。 「わたしは誰かって?秘め字の伏黒というのだけど、覚えにくいならユメノと呼んでもいいわよ。偽名でもそちらの方が可愛いでしょう?」 ローブを着た何者かが問い掛ける前に、黒い少女は答えを授けた。フードに隠れて名無しの存在の表情も見えないのにユメノは知った風に頷く。 「解ってるわ。知りたいことは他にも沢山あるのよね?だから敢えて最初に大事な答えをあげる」 満月じみた双眸の奥に愉悦を覗かせ、態とらしく両手を広げてみせる。 少女は左手側に黒猫を、右手側には暗灰色のカソックを着た男を従えている。既にその答えを知っているのだろう護衛達は意地の悪い目で名無しを見ていた。神父姿の男は嘲笑を隠そうともしていない。 「この世界はゴミ箱、堕ちたあなたは不要とされた瓦落多よ。役目を喪った証拠に自分の名前も思い出せないでしょう?今のあなたに何の存在意義もないの」 「そうか」 楽しげに告げられた言葉に、名無しは驚きも怒りも感じていなかった。全く動揺を示さないからか黒猫が退屈そうに伸びをしている。 「つまらない反応ね。また外れかしら」 黒い少女は後ろ手を組む。 「天界を追放されたことは理解している。神に背いたのだから当然だろう……しかし私は同族による制裁を受けた上で下界に落とされたはずだ。何故この体は無傷なんだ?」 名無しは己の身体を眺めて呟く。神の手でもがれた翼こそないが、同胞達に灼かれた両眼や砕かれた全身の骨は再生していた。 「転生したからよ。そのせいで記憶も曖昧なはず。どうして自分が神を裏切ったのかさえ忘れてしまってるんじゃないかしら?」 「……そうだな」 指摘されてみればその通りだった。頭の中に靄がかかったみたいに記憶の映像は不明瞭で、鍵がかかったみたいに神からの断罪の言葉も想起できない。 「記憶については時間経過で戻る可能性もあるけど、難しいでしょうね。あなたはここで死ぬから」 黒い少女は軽く右手を挙げた。神父が前に進み出る。 「今回ばかりは扱き使われることに感謝しよう。不出来な紛い物の受肉体だとしても、忌々しい天使を打ちのめせるなんて願ってもない役得だ」 神父は涅色の蓬髪を片手で梳き上げながら嫌悪を吐き捨てた。殺気を込めた真紅の瞳が名無しを見据える。 「死ぬことに抵抗はない。だが」 「どうして自分が殺されないといけないの?って顔してるわね。理由を知りたいのなら教えてあげる」 少女がこちらを指差す。右腕が伸ばされ、ちらりと見えた手首には白い包帯が巻いてあった。 「あなたが正しく人外だからよ。欲望や利己心を持たない人でなしは舞台に上がる資格がないの。あら、意味がわからない?別に理解なんて期待してないから説明はおしまい」 黒い少女は冷淡に言いながら、左手でするすると右手首の包帯を解いていく。 「世界の破壊を防ぐため、正義の平和を守るため。わたしが悪を選定し剪定する」 露わになった素肌には無数の文字が黒々と刻まれていた。記号のように崩されて読めない様々な字は不規則に並び、トリックアートの如く見る者に錯視を催す。 「一つ返しておくわね、怠惰と堕落のダザイさん。後は任せるけど白坂の欺瞞装飾を壊さない程度に手加減よろしく」 少女は左手の人差し指で文字だらけの肌をなぞる。右手首からは剥がれるように一部の文字列が浮かんで消えた。 「……善処しよう」 右手を軽く掲げながらダザイと呼ばれた神父が頷く。 「おいテメェ、壊れたら落ちるんだからなオレ達。今日は巫山戯るなよ?オレは姫しか拾わないぞ。オマエだけ落ちやがれ」 少女の足元で黒猫がダザイに向かって苛立たしげに尻尾を振る。 「そこは大丈夫さ。僕は既に堕落しているからね。落とされたって問題ない」 「ウゼェな。さっさと働け」 「はいはい」 不機嫌に唸る黒猫に能天気に応え、能力を解放しようとしたダザイは右の掌を見つめ怪訝そうな顔をする。 「ユメノ?これ違くない?」 「何も間違えてないわ。あなた遠距離攻撃だと調子に乗ってやり過ぎるし」 黒い少女がくすりと笑う。 「きっと必要になるからそれでいいのよ」 「……嗚呼そうかい」 不服そうに呟いたダザイが徐ろに足を踏み出す。 「我が身は黒き御子の矛にして盾。我が()は誉れなき道化である。酔歩する闇よ、深淵の微睡みよ、我が祈りに夜の(うた)で答えよ」 低く唱えて拳を握れば刻まれた文字は吸い込まれるようにして消えた。ダザイは両手に漆黒の魔力を凝集させる。楕円の装甲が肘から先を覆っていき、籠手とも盾ともつかない上腕の武装が形成される。軽く振ると神父服に合わせて漆黒が暗灰色に変わった。 「待たせたね、っていうか逃げも隠れもしないなんて本当にやる気ないんだな……僕より怠惰かよ」 「そちらの少女の言葉について考えていた。確かに私には望むことは何もない。この世界において邪魔な存在だというのなら消えるべきだろう」 不条理な現状も理不尽な言葉も名無しは納得して受け入れるらしい。神父は舌打ちしたがもう何も言わなかった。立ち尽くしたまま構えもしない相手に向かって駆け寄り、大きく振りかぶった拳で横殴りの一撃。名無しは倒れこそしなかったが、顔を強く弾かれた衝撃でフードが脱げた。長い銀髪が乱れ靡く。フードに隠れていた空色の瞳は、己を殴った神父ではなく離れた所に佇む少女に焦点を合わせていた。 初撃とは反対の腕が引かれ、再び神父の拳が名無しの横っ面に放たれる。逆方向に頭部が揺らされて蹌踉めいたところに腹部を狙った三度目の拳打が突き刺さった。思わずといった様子で後退し腹を押さえる敵に、神父はへらりと笑い掛ける。 「悪いね。楽に死なせてやれそうにない」 「どうでもいい。好きにしろ」 名無しは平然を装って応える。 「では遠慮なく」 次の瞬間、速さと重さを増した拳が真正面から入った。名無しが吹っ飛ばされ離れた位置に仰向けで倒れる。上体を起こした名無しは鼻腔から滴る鮮やかな赤を拭って不思議そうに見ていた。痺れるような奇妙な感覚まで鼻の奥から生温い液体と共に湧き上がってくる。戸惑いを察してダザイは嘲笑する。 「もしかして受肉は初めてかな?その赤いのが血で、今まさに芽吹こうとしているのが痛みだよ。慣れないうちは驚くよなあ」 殴り飛ばした直後に走り出していた神父は相手が立ち上がる前にその腹部に着地を決めた。声にならない苦鳴を漏らす敵に跨ると容赦なく連打を浴びせる。顔に肩に胸に気の向くまま拳を減り込ませる。血を吐き痛みに悶絶しながらも名無しは身を守ろうとしない。苦痛の中で何か思い出せそうな気がしていた。 この感覚は初めてのようで初めてではない。鮮やかな赤に見覚えがあった。熱いようですぐに冷めてしまう儚い温もりをこの手は知っている。全身を苛む痛みや苦しみを何か別の形で感じたことがあった。 「おっと、動かなくなった。死んだかな?」 ダザイが胸倉を掴み上げて血に汚れた顔を覗き込む。 その時、名無しもまたダザイの目を覗いていた。真紅の瞳を鏡とし、自分の姿をここにきてようやく視認した。映り込んでいる精悍な顔立ちは本来の自分のものではない。目の大きさも鼻の高さも唇の形も違うのにどうしようもなく懐かしい。(それ)が傷付いて赤く染まっているのもまた、狂おしい程に胸を締め付ける。そうだ、思い出した。 血に濡れた顔貌をこの手に抱いたことがある。 「まだ息はあるようだね。鬱陶しい頑丈さだ」 ローブから指を放し武装も一旦解除して、神父は両手を敵の首に回す。徐々に力を込める。 「無抵抗の人形を殴るのにも飽きたし、受肉体なら息を絶つ方が早いかもしれない」 神父は弄ぶようにして緩慢に首を締めていく。 薄れていく意識の中、名無しはだらりと垂らしていた腕を持ち上げた。絞殺を目論む神父の腕を力なく掴む。名無しは喘ぐような呼吸をしていた唇を小さく開閉させ、必死に言葉を紡ごうとする。 「言いたいことでもあるのかい?聞いてあげるよ。ストレス発散できたし、僕にも最後の言葉を聴く慈悲くらいはある」 ダザイはあっさりと首から手を離した。 名無しは咳き込みながらも喀血と共に胸中に溢れた想いを吐き出す。 「私は……に会いたい」 「へえ?名前は覚えていないようだけど、もしや器の元になった人か?悪魔じゃあるまいし天使が受肉なんて変だと思ってたんだ。身体をどこから調達するのか気になっていたが、地上の人間に憧れたり愛してしまったりなんて話は」 まだ何か話し掛けていた神父だが腕に痛みを感じて言葉を途切れさせた。弱々しく腕に引っ掛かるだけだった手には強い力が込められて、更には金色の光を帯びている。異常を察してダザイは名無しの手を振り解き、再び両腕に装甲を纏う。敵が仕掛けてくる前にと両手を組み高く掲げて頭を潰す勢いで振り下ろす。 「いや、私は神に会うんだ」 打ち下ろしの攻撃を名無しは重ねた両腕で防いだ。 「神に会って……この手で殺してやる」 自覚したことによって顕在化した憎悪の力が膨れ上がる。暗く濁った金色の光が弾けた。神父は装甲を盾にして受けるも衝撃によって後方に吹き飛ぶ。 激情を抑えられなくなった名無しは瞬時に立ち上がり、両手に魔力の輝きを纏わせて神父を追う。着地のタイミングを狙って殴り掛かってくるのをダザイは跳ねて避ける。空振りの拳は真下の雲を散らした。 「おいコラ、ダザイ!穴が空いたらどうすんだ!」 「は?僕のせいじゃないだろ」 黒猫の叱咤に抗議しながらも後ろの少女に被害が及ばぬようダザイは回避を辞めて敵の拳打を装甲で受け続ける。癇癪起こした子供のような攻撃は直線的で捻りがない為、捌くことは難しくなかった。たまに反撃を織り交ぜつつ猛攻を凌ぐが、カウンターを当てても名無しは退かない。しかし次第に攻撃が当たらないことに苛立ち始めた名無しはローブの裾を翻して後方に大きく跳んだ。 名無しは神父を倒したいというよりも行き場のない感情と力の捌け口をひたすら求めていた。両手に込めた魔力を凝縮、褪せた金色の魔力球が形成されていく。 「結局こうなるか」 溜息を吐いたダザイは両腕の装甲を変形させる。大きな盾となった装備を前方に構えたと同時に眩い光球が解き放たれた。大盾の表面で金光が炸裂、魔力の余波が雲海を波立たせる。 「もういいわ。あなたの欲はわかった」 名無しは再び魔力を溜め始めるが、いつの間にか黒い少女が背後にいた。名無しが振り向く直前、ローブの端にそっと触れた指先には『止』の文字。 名無しの身体の動きが止まる。内側で荒れ狂う魔力も憎悪の奔流も止まる。いつの間にか流れていた涙も止まる。脳内で繰り返される神を呪う声も同族を恨む声も、大事な友人を守れなかった自分を責める声も止まる。 「あなたの願いを叶えてあげる。だから代わりに、わたしの力になって頂戴。これはお願いではなく命令よ?冷静になれば戦力の差は理解できるでしょう?」 瞬間的に沈静化され唐突に凪いだ心は不思議と素直にその言葉を受け入れ、名無しは気付いたらユメノに頷き返していた。いつの間にか強制停止は解除されている。 「もしかして君も神を恨んでいるのか?神を殺すのが君達の目的なのか?」 振り向いて尋ねれば「別に」と少女は笑った。 「この物語(世界)を不完全なまま廃棄した創造主も、半端に管理して見捨てた不在神(イヌカミ)もどうでもいいわ。わたしが代わりに神になるもの」 黒い少女の傍らに神父と猫が駆け寄る。 「閉ざされた未来を開くため、存在しない悪役も結末もわたしが用意する。終幕の捏造に成功した暁には無限の向こう側にあなたを連れて行くわ」 死と退廃を引き連れた黒い少女が微笑む。 「あなたに仮の名前をあげる。ちょっと探すから待っていてね。偽名は適当に目に付いた名前から拝借するのが楽なのよ」 金の瞳が青空の向こう側を見上げる。特異な存在である少女にしか観えない無数の文字の海から最適解を見つけた。 「ゴミ箱から這い上がり神を穢す復讐の塵芥……ということでアクタはいかが?」 提案と共にユメノの小さな手が差し出される。 少女の温もりを識った時、堕ちた天使はアクタとなった。
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