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「迪子さぁん」
紺のユニフォームを着た若い女性が、涙目で迪子さんの手を取った。
「ごめんなさい。私がちょっと目を離したから…。寂しくなかったですか」
「ええ。皆とお喋り出来たから楽しかったわ」
迪子さんはにこにこと笑みを浮かべた。
施設で企画した日帰り旅行で、湖に紅葉狩りに向かう途中、この辺りを通ったのだそうだ。貸切バスでの移動で、お昼の休憩を挟んだ時に姿が見えなくなってしまったらしい。
「事故や事件に巻き込まれたら申し訳ないって、もう心配で心配で」
職員の女性と施設長は胸を撫で下ろした。
認知症の入居者の場合は、症状が軽くて自分の足で歩ける人に限り、家族からの了承も得たようだったが、見覚えのある景色に記憶が刺激されたのかもしれない。
「とにかく無事でよかったです。本当にありがとうございました」
タクシーに乗る迪子さんたちを見送ったあと、静子さんとも別れて僕らも車へと戻ってきた。
「再発防止のために対策を練る必要はあるだろうが、記憶が溢れてくる力には敵わない。今をさまよって生きているような人にとって、楽しかった日々は大切な想い出だからな」
彼女が無事に安全な場所へ戻れることにほっとしてはいたけど、僕は何となくしっくりこなかった。さっきの幸せそうなアルと迪子さんの様子を思い出した。たぶん迪子さんは、僕らのことを明日には覚えていないだろう。
「今一緒にいる人のことは忘れちゃうんだね」
「いつかは静子さんのことも忘れてしまう。思い出せるうちが幸せなんだろうな」
楽しかった想い出だけを集めて、それでも指の隙間からぽろぽろこぼれていく記憶は、どこへ消えてしまうんだろう。
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