その一滴も、

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その一滴も、

   誰も知らない、夢をみていた。  世界でたったひとつの、朝靄に舞うささやかな夢だ。  ◇  長い長い微睡みから、春に散る花びらのように抜け出したその瞬間。わたしは時が止まったその世界で声も出せず、かがやく景色に見惚れていた。  凪いだ水面がいちめんに広がり、秘色に映える朝のきらめきが目に届く。わたしが佇む白妙の浜は、顔を出したばかりの朝日を受けて眩しく光っていた。瞬きをする度に滲むやわらかい光が、心を通り抜けて、わたしとひとつになっていく。  優しい満ち引きを続ける透き通った水は、哀しむ人の身体から流れるそれのようにも想えた。  ゆっくりと顔をあげると、祈るような朝焼けの空と目が合う。  ここは、どこだろう。  わたしは、どうしてここにいるの。  そんな必然の感情さえも愚問だと、そう思ってしまうほど自然に。  わたしは数ミリの違和感もなく、これは夢なのだと、いつか覚めてしまうものなのだと。その決して揺るがない事実を、心より遠くの、どこかで理解していた。  いつまでも、いつまでも、どうかこの夢が。  この夢が、覚めなければいいのに。  穏やかな波がゆらゆらと迫っては崩れて、硝子の欠片をちりばめたような灯りを放っていく。はるか彼方まで続く終わらない夢のきらめきは、どこまでも脆く弱いわたしを包み込んでくれるようだった。  はじめて出会ったはずなのに、どこか懐かしい匂いを含む空気。ままならない心象風景、その果てでいのちと呼応して響く波の音。  一定のリズムを保って重なっていく心臓の鼓動が、うつくしい世界に見合わないほど強く高鳴る。  それが広がっていくにつれ、思い出したくもない現世での記憶が、疼くように蘇った。追憶の彼方、心の引き出しに隠していた、灰色の憂鬱が浮き彫りになっていく。  そんな感覚に、どうしようもなく、陥って、  わたしの瞳から、  ほろりとこぼれた水が、  僅かな時をかけて頬を伝う。  その一滴が、地面に落下する。  わたしの意識からいちばん遠いところで、灯りをともした涙だった。  砂浜に流れた水はさらさらと音を立てながら、世界の縫い目をほどくように染み込んでいく。  刹那、天から光の粒が、雨の如く降り注いだ。 「ねぇ、きみ」  まるで、その時を見計らっていたのかのように。頭上から降ってきたのは、あまい砂糖を細やかにまぶしたみたいな、ひとつの声だった。  その声の主を確認しようと、ゆるゆると頭を上げて、焦点をあわせる。  それをみた、瞬刻。  あぁ、この人は天使なのだと。  何の疑いもなく、そう、強く思った。  直視するのを躊躇うほどに完璧な目鼻立ち、きめ細かくなめらかな肌。神様が利き手でえがいた美術作品のような造形に、わたしは目を見張った。  その整いすぎた容姿には、「天使」という己の存在を、否が応でも相手に受け入れさせるような。そんな、直接心に訴えかける説得力があった。  この世に存在する生命とは到底思えない、圧倒的なうつくしさ。放つ全て、仕草や表情ひとつひとつが、神聖な雰囲気を醸し出してそこに在る。  ふと、彼の背中にのびる純白の翼に目を向ける。  こまやかな羽を幾本もたずさえたそれは、朝日と生糸を織り込んだように繊細で。当然のようにそこに在る金の輪っかは、天からの光をめいいっぱいに受けてかがやく。  嫋やかな真白の衣をまとい、言葉にするのも惜しいほどに雅な香りを漂わせていた。   「可惜夜は、もう終わってしまったね」  あたらよ、って?  わたしの頭上の疑問符を悟った彼は、エメラルドの瞳で瞬きをひとつ。やわらかく、仄かに桃色に色づいたくちびるを小さく開く。 「明けてほしくない、夜のことだよ」  僅かな吐息を漏らして数秒、うつくしい彼は、そう言葉を発した。  後ろで絶えず打ち寄せるさざなみの音が、静かな世界に響き渡る。 「ねぇ、きみ、最後に世界をうつくしいと感じたのは、いつ?」  流れるような仕草で彼は、わたしの瞳からこぼれた光を掬うかのように手を差し出した。瞬きの合間、月明かりのような微笑みを見せる。  上品な香りが鼻腔を掠め、まるで魔法をかけられたかのように、眼前のその手に触れた。繋いだ手から直接伝わってくる、酷くあたたかい体温。  崩れたばかりの涙腺が追い打ちをかけて、とめどなく頬を濡らしていく。  あぁ、わたし。  このぬくもりを、  ずっと忘れていたんだ。  記憶の断片のように、止むことのない満ち引き。光を浴びた波の音色は、せせらぎの低音となって耳に届く。  ずっと、ずっと、  ずっと保っていた、  自分が、  自分で、  なくなっていく。 「きみ、さ」  スローモーションで顔を上げると、口許を緩めた彼の表情が視界に入る。 「何か、何かずっと、誰かに伝えたかったことはない?」 「代わり映えのない日々を過ごす中で、行き場の失った心象風景」  そんな、突然の言葉に戸惑うが、身体は自然と同意の動きを示していた。  胸の奥の傷が、声にならない叫びをあげるのがわかった、と同時に。 彼は、この世に蔓延る哀しみをすべて引き受けたような、そんな表情をして微笑んだ。
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