善人の奴隷買い

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善人の奴隷買い

 昔、ある王国に善人と呼ばれた奴隷買いがいた。  その奴隷買いは、市場で売り買いされる奴隷の中で、最も人気の無い者を好んで買い集めた。  すなわち、病人である。  ある奴隷は、赤い湿疹が全身に広がり、会話もままならぬ有様だった。  善人の奴隷買いは、その奴隷を屈強な男の奴隷二人分に相当する額で買い取った。  ある奴隷は、病気のせいで骨と皮だけになり、自力で歩行することも困難な有様だった。  善人の奴隷買いは、その奴隷を美しい女の奴隷三人分に相当する額で買い取った。  何故、使い道のない奴隷にそれほどの大金を出すのか? 皆が疑問に思ったが、尋ねる者は誰もいなかった。彼ら奴隷商人にとっては『売れる』ことが全てであり、万が一にも客の機嫌を損ねたくはなかったのだ。  その奴隷買いは、奴隷商人の間では売れる見込みのない商品を高値で買い取ってくれる『善人』だと持て囃され、奴隷たちの間では死を待つばかりの哀れな仲間を引き取ってくれる『善人』だと崇められた。  しかし、それほどの太客であるにも関わらず、彼の素性を知る者は誰もいなかった。  善人の奴隷買いは、窓の付いていない真っ黒な馬車に乗って、どこからともなく現れる。  御者は連れておらず、自らが巨大な黒い二頭の馬の手綱を引いていた。  黒い馬車はとても頑丈な造りをしていた。恐らくは鋼鉄製。扉を開けると、窓を引っ掻くような耳障りな金属音がしたという。  その中は、真っ暗で何も見えない。  窓が付いていないのだから当然のように思うかもしれないが、そんなレベルの暗さでは無かったという。  その暗さは、底の見えない奈落を連想させた。  こんな話がある。  ある時、一人の召使いが、主人である奴隷商人から『商品』を客の元へ運ぶように命じられた。その『商品』は原因不明の奇病に罹っており、膝から下が壊死していた。  召使いは生ゴミや汚物箱を運搬する際に使う台車に『商品』を乗せた。台車はひどく臭ったが、上に乗せた『商品』の臭いはそれ以上だった。『商品』は奇病に罹患した際、棺桶のような木組みの檻に放り込まれ、それきり何週間も放置されていたのだ。身体中に汚物がこびりつき、酷い有様になっていた。とてもでは無いが耐えられる臭いではない。召使いは、口と鼻に布をあてた格好で台車を引かなければならなかった。  召使いは死にそうな思いをしながら、苦労して『商品」を外に運び出した。  『商品』を収容する倉庫の裏口に、黒い馬車が停まっていた。  善人の奴隷買いは、その横で影法師のように真っ直ぐな姿勢で立っている。  召使いは奴隷買いに頭を垂れ、「商品をお持ちしやした」と告げた。  奴隷買いは品の良い笑みを浮かべ、一言「ご苦労」と言った。異様に肌の白い、年齢不詳の男だった。  奴隷買いは台車に歩み寄ると、まるで美術品を鑑賞するかのような眼差しで『商品』を見つめ、満足そうな笑みを浮かべた。  それを見て、召使いはギョッとした。  今すぐにでも胃の内容物をすべて吐き出してしまいそう悪臭の中で、奴隷買いはまるで何事もないかのように平然としていたのだ。  「・・・あ、あの、旦那。旦那は、その、平気なんで?」  召使いが尋ねると、奴隷買いはキョトンとした表情で小首を傾げた。しかし、一拍の後、彼は察したように「ああ」と笑みを浮かべた。  「この臭いのことだね。心配ない。私は━━」  次の瞬間、奴隷買いは『商品』の方へぐっと顔を寄せると、頭の先からつま先まで、すうぅぅ、と、大きな音を立てて臭いを嗅いでみせた。そして、  「慣れているからね」  と言い、紳士的な笑みを浮かべた。  その奇行を見て、召使いは驚愕よりも激しい嘔吐感を覚えた。客の━━それも、ただの客ではない。奴隷商人たちの間で『善人』と持て囃される上客の前で粗相をしたとあっては、後々どんな罰を受けるか分からない。召使いは意思の力を総動員し、喉元まで迫っていた吐瀉物を何とか飲み込んだ。  その様子を見て、奴隷買いはハッハッと愉快そうに笑った。召使いは空えづきしながら、「申し訳ありやせん」と頭を下げた。  「気にすることはない。キミは『慣れていない』のだから仕方ないよ。・・・さて、そんなキミにお願いをしなくてはいけないのは甚だ恐縮なのだが、『コレ』を馬車に積むのを手伝ってくれないか? 私一人では、文字通り荷が重くてね」  「それはもちろんのことで」  元よりそのために主人から遣わされたのだ。召使いは台車を動かし、馬車の背後に移動させる。後ろの扉は空いていた。  その中は、ゾッとするほどの闇が広がっていた。  単なる思い違いか、それとも別の何かによるものなのか、馬車の背後の扉の前に立った途端、闇の奥から生温い風が吹いてきた。まるで人肌のような温度だった。それが頬を撫でた瞬間、召使いは背筋に氷が伝ったような悪寒を覚えた。台車を支える手が、ガタガタと震える。この中には絶対に入りたくないと、魂が訴えていた。  「どうかしたのかね?」  ハッとして横を向くと、奴隷買いが覗き込むような格好で召使いを見ていた。  ヒトの目をしていなかった。  この世界のありとあらゆる『人でなし』が集まる奴隷商人の元で長く勤めた彼でさえ、ここまで『人間味』を感じさせない目をした男を見たのは初めてのことだった。  「・・・何でもありやせん」  召使いはサッと目を逸らした。もはや臭いは感じなかった。・・・感じる余裕がなかった。召使いは『商品』を乱暴に掴むと、投げ入れるようにして馬車の中に積み込んだ。  「ご苦労」  奴隷買いが労いの言葉をかける。そちらの方を一切見ず、召使いは無言で頭を下げた。身体中に、汗がびっしりと浮かんでいた。  奴隷買いは馬車の扉を閉め、御者台に乗り込んだ。手綱を一振りすると、黒い二頭の馬は鳴きもせず走り始めた。  召使いは頭を垂れたまま、馬車の音が聞こえなくなるまでその場から動かなかった。            ※  善人の奴隷買いが現れ始めてから半年後、王国にこんな噂が立った。  王国との統合を拒んでいたある小国で、奇妙な疫病が流行り始めた。  その疫病は全身に赤い湿疹が現れ、次第に言葉を話すことさえままならなくなるという恐ろしい病だった。  疫病のせいで壊滅的な被害を被った小国は瓦解寸前となり、王国との統合を受け入れた。  王国に攻め入ろうとしていたある帝国でも、奇妙な病が流行り始めた。  その疫病は身体が栄養を摂ることが出来なくなり、全身が骨と皮だけになった末、立ち上がることさえ出来なくなるという恐ろしい病だった。  疫病のせいで壊滅的な被害を被った帝国は、王国の奇襲に対応することが出来ず、そのまま滅ぼされた。  そして、小国と帝国を襲った謎の疫病の被害を被ったのは、王国も同じだった。  ただし、王国での流行は極めて限定的だった。  王国の『一部』で流行った疫病は、膝から下の壊死から始まり、やがて全身が腐っていくという恐ろしい病だった。  その病に罹ったのは、何故か王宮関係者に限定されていた。  当時の国王、その兄弟親類、そして、王の息子である第一王子と第二王子、その支援者である貴族や官僚━━計数十人に及ぶ王宮関係者がその病に罹り、命を落とした。  王と二人の世継ぎを一気に失った王国は、本来継承権の無かった第三王子を王に迎えた。  詳細は一切不明だが、第三王子は幼少期のとある『奇行』のせいで、半ば王族から勘当状態にあったらしい。王宮からは彼を王に迎えることに反対の意見もあったが、反対派の人間は軒並み『疫病』に罹り命を落とした。第三王子が戴冠する際、彼に『反対』の意見を述べる者は誰も残っていなかったという。  戴冠の儀は盛大に行われた。  奴隷商人の召使いは、所用の途中、たまたま戴冠式のパレードを目にした。  国民に向けて手を振る新しい王の姿は、あの日見た善人の奴隷買いに似ている気がした。  「・・・似ているだけだ」  召使いはそう呟くと、早々にその場を離れた。  戴冠の儀以降、何故か善人の奴隷買いが現れることはなくなった。            ※  第三王子の治世は、特に問題が起きることなく終わった。  ただ、彼の治世中、人が原因不明の失踪を遂げることが度々起こった。その数は、一説には万を超えるという。  消えた彼らがどうなったのかは誰も知らない。                   <了>  
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