0人が本棚に入れています
本棚に追加
手紙
空港に着いたのは夜9時を少し回った頃だった。預けていた荷物を受け取りロビーへと向かう。「たっちゃーん!」黒いスカートスーツを着た女性がヒールを響かせて駆け寄って来る。五月から付き合い始めた由里子だ。抱きついて、唇を重ねてきた!「ちょっと、ゆり?皆見てるって!」「見られたって平気!おかえりなさい!」「只今〜!腹減ったー!」「すき焼きの準備してあるよ!奮発していいお肉買っちゃった!」「うっひょー!さすがゆり!」「あっちでいっぱい遊んできたでしょ?」「遊ぶって?」「ビーチに女の子いっぱいだし!し放題じゃない!」ちょっとドキっとした。「浮気とかー?全然してないよ!忙しくて、大変だった!」「じゃ、ちゃんと証明してよねっ!」左腕を抱き込む由里子と並んで駐車場へと向かった。
由里子とは四月にゼミの友達三人で居酒屋で呑んでいた時に、たまたま隣で由里子達四人が呑んでいたのがきっかけだ。共通のアーティストのライブの話で盛り上がり、テーブルをくっつけて男女入り混じって一緒に呑むようになった。僕の隣には由里子が来て、話してみると同じように水泳部出身なのと、同郷で共通の知人までいた。由里子達は僕より二つ年上で同じ職場で勤めるOLだった。結局、二次会はカラオケボックスで騒いで始発で解散した。
翌週、由里子から食事に誘われ彼女の部屋で一夜を共にした。どちらから告白した訳ではないが、自然な流れで付き合っている。週末は大抵どちらかの部屋で過ごすことがほとんどだ。
沙菜のことも放っておけなくて、毎日メールを送った。由里子と会わない日には、たまに電話もかけていた。遠距離というのは難しい。毎日が二日に一回になり、段々と週一回になった。「達也さん忙しいから、無理しないで。暇な時だけで十分だから…。」日が過ぎる毎にメールも短くなっていく。沙菜の対応は何も変わらないというのに。
クリスマスイブに由里子とフレンチレストランにいた。ディナーを食べ終えてから、「たっちゃん、良かったら一緒に住まない?週末だけ行き来しているのも何だし、もっと一緒に居たいし。どうかな?」二人の家賃分より安く借りられる2LDKへと引越した。大学の授業や課題、飲食店のバイト、由里子との生活。充足した日々を送るにつれ、何時しか沙菜へのメールは頭の中から消えていった。
由里子とは五年、今までの人生で最も長く続いた。自由奔放な性格は、飽きさせることなく日常を楽しませてくれた。弾みでちょっと浮気しても泣いて怒られるが、何時も許してくれた。
沙菜のことは気になっていたが、裏切ってしまったように思えて、怖くてコンタクトが取れなくなっていた。ひょっとしたら、もうこの世に居なくて、僕を恨んで死んだかもしれないと思うとあまりにも申し訳ない。きっと、病気が治って、好きな人が出来て幸せな日々を送ってくれている。そう思い込むしか無かった。
妻の梨花が宮古島でウェディングフォトを撮りたいと言い出した時は、正直困った。もちろん、沙菜の話はしていないし、宮古島には一度旅行で行ったことがあるとしか話していない。
仕事で行けないと断る手もあったが、沙菜と会ったあのビーチにもう一度行きたい。そして、沙菜がまだあの島で生きているなら、この石を返してこの九年間を心から詫びたい。もっと気になるのは沙菜の消息だった。
あの日と同じビーチにある岩に座りながら、この九年間を思い出している。今年、入籍し来年の春には式を挙げる。人生の大きな節目だと思う。どんな形で終わるにせよ、過去の自分にケリを付けておきたい。
短パンの右ポケットからカルサイトを取り出した。気のせいではない、やはり熱を帯びている。何か感じるか色んな方向に向けてみた。この小さな隠れたビーチの端に大きな巨岩がある。その方向に石を向けるとピーンと脳内に音が響く気がする。
巨岩には大きな裂け目があり、そこから中に入れる。中は大木のうろのようにくり抜かれた空間になっている。石を右の掌に置いてくるりと色んな方向へ向ける。一瞬、オレンジ色に光った。高さ2mほどの場所に直径15cm位の穴が空いている。ビーチに出て脚立代わりになる流木を探した。
太めの流木を立て掛けて、穴の中に手を伸ばした。腕の太さギリギリだ。何か金属の箱のような物がある。指で掴んで何とか取り出せた。
「バキッ。」流木が折れて、強い衝撃を感じた。
「達也さん、大丈夫?」聞き覚えのある優しい声が聴こえる。「まさか?」目を開けて飛び起きた。「沙菜?何で?」大きな麦藁帽子を被った沙菜が立っている。慌てて立ち上がり、「沙菜!」色んな思いがよぎり言葉にならない。目の前にあの日のままの沙菜がいる。華奢な身体を力いっぱい抱きしめた。沙菜の大きな麦藁帽子がゆっくりとスローモーションのように落ちていく。「沙菜、ごめん。本当にごめん。ごめん。」涙が止めどなく溢れていく。沙菜の淡い花のような香りを精一杯吸い込んだ。「沙菜ー、沙菜ー!」「いいの、ありがとう帰って来てくれて、それだけで十分幸せだから…。」顔を上げて沙菜の顔を見つめた。優しい笑顔を浮かべている。冷たい頬を両手で包んで唇を重ねようとした時、景色が真っ暗になった。
後頭部が痛い。落下した時に強く打ったようだ。手で撫でてみると、薄っすらと血がついているが、大したことは無さそうだ。さっき見たあれは何だったのだろう?夢なのか、それとも幻想?岩の穴から取り出した小さな四角い缶は温かい。蓋を開けてみた。紫色の小さな巾着袋と下に手紙が入っているようだ。
巾着袋には沙菜が持っていたカルサイトの女石が入っていた。ポケットの石を取り出してくっつけてみるとオレンジ色の光は消えゆっくりと冷たくなった。二つに折られた便箋の表には「達也さんへ。」と書かれてある。
開けるのが怖かった。恨み事がたくさん書かれていてもおかしくはない。
「達也さん、ここに帰って来てくれてありがとう。お迎え出来なくてごめんなさい。達也さんがこの手紙を目にする時、きっと私はもうこの世にはいないでしょう。先日、余命三ヶ月の宣告を受けました。心臓移植も費用が大変高額で、母が親類や銀行に頭を下げて集めようとしてくれたのですが、全く届かない金額なので、そのまま死を受け入れることにしました。
二十年間生きてきて、色々ありましたけど幸せでした。一番の思い出は、達也さんと過ごしたあの夏の短い日々でした。今でも毎日のように思い出しています。サガリバナを観に行った時の写真は私の宝物なので旅立つ時も一緒に持って行きますね。あの夜は、ワガママに付き合って貰ってごめんなさい。私の初めてを全てもらって欲しいとも思いましたが、痩せてあばら骨の浮き出たこんな身体を見せたくなくて、でも肌で直接触れたくて、達也さん困ってましたよね。でも、こんな身体を小さな胸をきれいだと言ってくれて嬉しかった。唇を重ねて、鼓動(心)を重ねて、達也さんと一つになれた気がしました。沙菜は幸せでした。本当にありがとうございました。たくさんの愛をくれてありがとう。私の分まで、幸せになってください。
この手紙を読んだら私沙菜のことは全て忘れてたください。
宮城沙菜」
「う、う、う、沙菜ー!」涙が溢れて嗚咽が止まらなくなった。ほったらかしにしたのに、次に会う約束も破ったのに、恨み言一つ書いていないなんて…。恨んでくれても、生きていてくれたら良かったのに…。怒りと悲しみが交互に襲って来る。自分が許せなかった。
何度も何度も地面を叩いた。叩いて、叩いて…。ひたすら叩いた。
最初のコメントを投稿しよう!