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三日後の十三時。香澄と私は駅集合で、薫は午前中部活で直に行くほうが良いから、ファミレスで待っているとのことだった。駅とファミレス間は一キロくらいしかないが、案外時間はギリギリなのかもしれないと見過ごすことにした。
雪がまだ残るが、太陽が曇に隠されながらも晴れていた日だった。もちろん私は駅に二十分前に着いた。香澄が「はや」と笑った。
店の前、駐輪場の隅に薫はポツリと立っていた。黒いラインが入ったTシャツに、ジーンズ。陸上部エースとして散々地面を蹴ってきたボロボロのスニーカー。私には、香澄のバッグを靴に反映しただけに見えた。スマホを眺める彼の目に重なる、角縁メガネのレンズを光らせていた。雪に反射した光で余計シルエットが見づらい。薄い灰色を纏う彼の腕に、白い息がかかる。
「薫」
「お、入るか」
薫はスマホを、変な柄のトートバッグに丁寧にしまった。
席は案外空いていた。高校生三人ともなると入れないかと思っていたが、香澄が「ここのお店学生支援力入れてるからねぇ」と私にしか聞こえないようにこっそり口に出した。
香澄と薫が対面で座り、私は薫の隣に座ることになった。一つだけ空いた席に香澄のあの肩掛けバッグ、薫の変な柄のトートバッグ、私の小さなナップザックをぎゅっと集合させた。香澄と私のカバンの容積が少ないお陰で、置き場所には困らなかった。
席につき、メニューを広げる。ドリンクバーはみんなためらうことなく注文し、私はグラタン、香澄はナポリタン、薫はたらこパスタを頼み、飲み物も決まったところで、「さて」と薫が一息ついたように言った。香澄がようやく、薫という存在を認識した。
「はじめまして。李依の幼馴染兼友達の羽島薫です」
何が友達だよ。幼馴染はホントだけど。
「…李依のクラスメイト兼友達の、八木香澄です、はじめまして」
薫は「よろしく」と一拍いれると、また香澄も同じく「よろしく」と一拍入れた。香澄の方に若干の警戒は見られるものの、私の顔と薫の顔を交互に確認していくうちに、敵ではないと感じ取ったらしい。
「じゃあ、八木さん、でいい?」
「それなら私も、羽島さん、で」
「…李依はお互いの呼び名でいっか、どっちとも知り合いだし」
「…私これ、いないほうが良くない?」
そう言うと意外にも香澄のほうが反論してきた。
「李依、私はいてほしい。羽島さんには悪いけど、初対面の人と二人は気まずいし怖いから」
薫もそれを察したようで、
「確かにそうだね」
と追い風を出した。香澄は「「李依は会話にあんまり介入せず聞いているだけ」という状況がいいんじゃない?」と言ってくれた。薫もまた、「そうだね」と言った。薫に香澄に拒否する姿勢が見られないのは、今の香澄には拒否するところがないからだと信じたいが。私はすこし眉を顰める。
「八木さんは、いつまで生きたい?」
ドキッとした。私が聞けなかったことを、聞きたいけど聞けなかったことを、正面から入り込んできた。
私の方に顔を向けて、香澄は目を見開いた。
「李依から、話伝わってたんだ」
やっぱりここでも、頷くしかなかった。
怒ったかな、と身構えた。しかしそういうわけではないようだった。むしろ、嬉しいという感じだったが、その目自体は神妙な感情を訴えているようだった。
本当に、嬉しいのだろうか。香澄は喜んでいるのだろうか。目の奥を追えば追うほど、ますますわからなくなってくる。
香澄は薫に目を向ける。
「いつまでだろう」
少し考えたあとで、香澄が笑った。
「死ぬのに適切なときになるまで、かな」
明確に決めたわけじゃないんだ。
「なんで死のうって思う?」
「別に、生きるのめんどくさくなったから」
めんどくさいだけなんだ。
「生きろって言うわけじゃないけど、死んだら迷惑、とかは?」
「とっくの昔に考えたよ」
とっくの昔に考えたんだ。
「ねえ」
なんとなくの私の意識がハッと覚めたのは、香澄の方から声を出したときだった。薫もコップを持つ手を止め、意識を集中させた。
「羽島さんは、これからも生きたい?」
そりゃあ生きたいでしょ、と呼びかけに反応した私の思考に反するみたいに、薫は息を止めた。私も私で衝撃を抑えられすに居た。彼には図星、だったのか、死にたかったのか、薫は、という声にはできないほどの悲痛な言葉たちが何度も何度も反響していた。
耐え難くは、なかった。
薫は細々とした声で、呆れたように言った。それでも顔はうつむいたままで、彼が真剣に悩んでいることがどうしても否定できなかった。
「生きていたいけど、今の状況のまま生きるなら死にたい」
「じゃあ、なんで今のままで生きてるの?」
「今の状況から逃げられないから」
「今の状況って?」
「親が嫌なんだよ」
「逃げないの?家出とかすればいいじゃん」
「え?」
私と薫が揃って声を出す。二人の立場が逆になったタイミングだった。薫はそれこそ開いた口が塞がらないという感じだった。親が嫌だから家出すればいい。逃げることを何故しない。
これはある意味、薫への助言ではなかった。ただただ死を真面目に考える人間の、ひとつの「主張」…。それはなんだか、誰かに一目惚れする瞬間と似ていた。「私は逃げるために、死にたい」。香澄のその考えはゆるぎなかった。
鈴木が言ってた。「学校に行くのが辛いなら、学校なんてなくていいんだ」って。
「親」が辛いなら、親のところにいなくていい。「家」が辛いなら、家にいなくていい。香澄だって、思っているはずだ。「生きる」のが辛いなら、生きていなくていい。死んでいいんだ、って。人間の本質は、生死よりも辛苦という部分にあるのかもしれない。
香澄は初対面の人間に、逃げていいんだよ、って、簡単に言った。それはどういうニュアンスだろう。そもそも私は、香澄はどういう辛さを乗り越えてきて死のうとして今こういう結論を出せるのか、何一つわかってない。
「人間として腐る前に、逃げて蘇生したほうがいい。羽島さんならまだ間に合うよ」
真っ直ぐ前を見ている香澄の目には、薫の顔がある。
薫の一昔前の過去から、文字を一つ一つ書き起こしているようだった。楽しかったこと、嬉しかったことまから、苦しかったこと、辛かったことまですべてを鮮明に、何一つごまかすことなく過去を見つめる。死ぬ前最後の回想は、そういうものなのかもしれない。死ぬ前に死ぬことを考えてやること。終活の意味合いにも、自然とつながってくる。
「家出なんてしたら、迷惑がかかる」
「自分に迷惑かけてるやつにそんな心配する必要ないでしょ」
間をおいて「私は」と香澄が良いかけたところで、ナポリタンとたらこパスタが届いた。
私は二人の会話を聞いているだけ。食事をしているわけでもない。お腹をすかせてる。それをわかっているはずなのに、なんだかお腹がいっぱいだった。二人はなにか考え事をしながら「いただきます」と言い、香澄はその後に「李依、お先に」と社交辞令のように一礼した。私も釣られて一礼したところで、グラタンが届いた。
薫は清々しいような、悩んでいるような表情をお皿に向かって繰り返した。視線を合わせないようにしているようにも感じたが、そこは言ってはいけないだろうと私は考えた。バレないように泣いている…絶対に違う、と慌ててフォークを取った。
全員が静かに食べた。周囲のおしゃべりの声やグラスを打ち付ける音は、勝手に演奏される音楽のように感じた。痛々しい赤子の泣き声も、いつしか気にならなくなった。薫の現実も香澄の現実も私の現実も、なんだかいつもと違った。美味しい、という感覚があっても、それを出せる声帯と勇気はなかった。
なんだかんだで私は食べ終わった。食べるのが一番早かった香澄は遅い薫に飽きて、ドリンクバーを混ぜて楽しんだり、私のグラタンのソースをちょっとずつ食べてみたりと、ファミレスを単純に楽しむ女の子になってしまっていた。まるで薫がいないみたいに、私と接する。
嫌だ。この雰囲気は、嫌だ。感じたくないものだから、感じなくてもいい。そうだと信じているのに、どうしてそういうことまで感じ取ってしまうのか。本人の私にも、なんだか理解が追いつかなかった。
薫は全然香澄と話さなかった。話したいことって、あれだけだったのかな。それならメールをつなげてやるだけで、良かったのに。あの会話以来ずっとうつむいたままの薫が、何を考えているのか。私が今薫に言いたいことは山ほど積もっていくのに、薫が今私に言えることは徐々に減っている。
気まずい空気でもない、「なにか」。この「なにか」のなかで、私は薫に何をしてやればいいだろう。
お会計は各自のドリンクバー以外、香澄が全額支払った。「もうすぐ死ぬから財産はあんま残しときたくない」のあとで息を大きく吸って、「これも終活の一部だから」と振り返らずに言った。本当に死ぬんだと、わかってしまう気がして、悔しかった。
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