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薫と分かれたあとで、香澄とは遊ぶ約束をしていた。
「李依の家はダメ?」と聞かれるが、「ダメ、姉ちゃんが潔癖症だから、家に人呼ぶなってうるさいから」ときっぱり返した。もちろん、この場を凌ぐためにでっち上げた嘘だ。潔癖症なんかじゃないし、まず「姉ちゃん」だなんて呼び方しない。今初めてした。
「姉」という普通名詞で、物心ついたときから呼んできている。あんな生物に名前を付ける意義なんて、私には感じられない。
「そうだ、いいところあるよ」
「いいところ?」
「プライベートも守られるし、めっちゃおもてなししてくれるし」
どこかのレンタルスペースかと一瞬思った。しかし改めて考え直してみると、レンタルスペースにおもてなしというおもてなしはない。
「ちょっと待って、どこに行く気!?」
「私の友達の家」
焦る私の顔とは真逆で、きょとんとした顔だった。
彼女が手を引いて連れて行ってくれたのは、「ゆとり」からそう遠くない、ごくありふれた民家だった。インターホンも鳴らさずに家のドアを開けようとする香澄を止めようとして、表札の文字が目に入る。
「…熊川…」
「おばさーん、久しぶり」
出てきたのは三十代くらいの女性だった。
「香澄ちゃん!久しぶり、よく来たね!」
不自然なほど抑揚がつき、嬉しそうな女性は、私に目を向けるなり、
「あら、あの子は?」
と笑ったままで言った。なんだかとても、気持ち悪い。
「私の友達。遊ぶところがないから、ここ来たんだけど、いい?」
「いいわよ、寒いでしょ?どうぞ友達も入って入って」
友達感覚で入れられたその家は、とても綺麗に手入れされていた。しかしその理由は、フローリングの溝を追った先にあった。
「仏壇…?」
「私の友達」
「死んでるの?」
「つい数ヶ月前」
「え?」
私は思わず何度か聞き返したが、彼女は無視を貫いていた。
「おばさん」はキッチンで「あったかい飲み物用意するからね」とお湯を沸かしていた。香澄は「ありがとうございます」と言うと、そこから足をほぼ止めずに、二階の部屋に入った。香澄がボタンを押して小さなルームライトをつけると、私達はぼんやりと薄明かりに包まれた。知らない匂いがした。なんだか、とてもいい匂いだった。
男の子の部屋だった。シャーペンは黒や紺色が多く、そばに小さく置かれたゲーム機、ペン立て、部活の「全国大会優勝おめでとう!」の文字と写真。サッカー部だろうか。写真と同じポロシャツが二段ベッドにかかっており、後ろにはサッカーボールらしきイラストがプリントされていたが、剥がれかけていた。教科書やノートが数冊落ちていて、生活感が溢れていた。
香澄が言っていることが本当だとしたら、この部屋はこれからこの状態で使う人が誰もいなくなる。他に兄弟が居た感じもなかったし。
落ちていたノートを一冊拾い上げてみる。角張った「歴史 課題用 二冊目」の文字。名前を探してみると、後ろに書かれていた。
「熊川日々輝」。…くまがわ、ひびき、で良いのだろうか。
「いい名前じゃない?」
香澄は一段目のベッドにいつのまにかあぐらをかいていた。
「意図もめっちゃかっこいいんだよ」
「…日々が輝きますように、って?」
「そ。本人はキラキラネームだー、っつって、あんま好きじゃなかったらしいんだけどさ」
香澄はそのまま、「李依、無視してごめん。ちゃんと話すよ」と言いながら重心を後ろにずらす。おばさんに聞かれるといけない話だったのだろうか。
「あいつね、自殺」
声の透き通り方に、なんだか揺らぎと重苦しさがあった。私は内容と声のアンバランスさに目眩がした。私は大きく驚きはしなかった。瞼を重く閉じかける香澄はなんだか寂しそうで、うつむいていた。香澄は準備していたかのように、すぐそばに落ちていた英語の教科書を拾い上げる。
香澄は一気に言った。私に話す暇も与えなかった。
「この教科書、三学期から使う予定だったんだよ。悲しくない?その前にあいつ、死んじゃったんだよ。この教科書使うまで、生きてくれなかった。本当に勉強好きで、新しい教科書での学習とか授業、楽しみにしてた。でも、そううまくいかなかった。新しくて素晴らしいこれからの記憶なんて捨てて、苦しい記憶だけ持って線路に飛び込んでったんだ。そもそもあいつの未来は、素晴らしくなんてなかったかもしれないし。私何してあげたら良かったかね。あんな無慈悲な運命辿るくらいだったら、私も一緒に線路に飛び込んで、悲しみ半分にしてやればよかったかなあ。乗るはずだった通勤快速に清々しい心持ちで友達と轢かれて、真っ赤になって、色んな人の記憶にトラウマとしていつまでもいつまでも残って、この世からずっと消え去ってればよかったかなあ。こんなの、本当にあり得る話だったんだよ。あいつが死ぬ前に一歩、別の考え方をしてれば、私はここに居なかったかもしれない。」
香澄はそんな長い言葉を話す間にも、笑ったままだった。表情も声質も、本当に何一つ変えなかった。私は本当に何も話せなかった。息継ぎの合間に言葉を発することも、許せなかった。国語が得意でも、長めの文は読む気が失せる。しかし香澄の声を聞くと、ずっと聞いていられた。耳が依存させられるような、そんな感じだった。
話していることはゆとりの時と同じテーマだとわかる。でも、あの時とはなにか違う。
「あいつ、私が転校する前の学校にいたんだ。でもいじめ受けて精神科に入院して、帰ってきたときにはあいつの机にあいつは居なくて、代わりにきれいなお花が。本っ当に、嫌な過去だよ。放課後に先生から事実を知らされるまでの丸一日、あいつはあの綺麗な花になったんだって、ずっと錯覚してた。どう思う?こんな私っていう人間のこと。友達は花になっただなんて、誰が感じたいと思う?」
ノック音がする。ドアを開くと、おばさんが小さなおぼんに温かいミルクティーとミルクレープを二つずつ並べて、持ってきてくれていた。香澄が慣れた手つきでそれを受け取るとドアを閉め、「あの人、日々輝の母親」とおぼんを床につけた。フォークはどうするのと聞くと、香澄はニヤリと白い歯を見せて、二段目の引き出しを開けた。
プラスチックの包装の音がかすれて聞こえる。よく見ると、使い捨てのが大量にストックされていた。「あいつもったいなからって、いっぱいストックしてたの」香澄はそう言いながら一つ一つ持ち上げながら、吟味するように眺めていた。白いシンプルなもの、ミシン目が入り、いくつかつながっているもの、環境に優しいプラスチックのもの。香澄は「これがいいや」とシンプルなやつを私に一つポイと投げると、香澄は自分用に同じものをもう一つ取り、ミルクレープを大きく一つ取って口に入れた。私もそれにつられて同じだけほおりこむ。
人はなぜか苦しさが限界にまで達すると、笑う。よく笑う。本当に、泣きながら笑ったりする。笑いが本当に、堪えきれなくなってくる。例えば妊婦は出産への事務的な準備をするより、産まれてくる赤子の未来を思い浮かべるように、死ぬ前の人は泣いて悲しむより、身の回りの整理をするように。正常な人間が思う死に際からはるかに超越した行動ではあるものの、これは本当の話だ。
_______今際の際にいる人間だから、香澄は笑っていられるのだろうか。
「私さ、生きるのも死ぬのも嫌いなんだ」
香澄がまた急にそう悟るように言う。
「香澄ってそういうの語るの好きなの?」
「別に。そういうの語る人ができて嬉しいだけ」
香澄は舌をぐるぐると回し、中のクリームを温めた。私も舌を回してみると、とろりととろけていくクリームの甘さが口に大きく広がる。香澄の食べ方が面白くて素晴らしいと思った。
でもそれを飲み込んでも、「おいしい」と言うことは全くできなかった。
「生きていたくもないし、死にたくもない」
私は香澄をじっと見つめた。
「あ、苦い」
香澄が手に取ったミルクティーに、付いてきていた砂糖をひとつ入れる。ミルクレープのフォークをそのまま入れてかき混ぜ、溶かし始める。プラスチックの先にミルクティーの雫が滴る。
「そんな世界にいたくないから、死ぬ」
香澄がまた、フォークをコン、とマグカップの隅に打ち、フォークに付いたミルクティーを落とした。
「ねえ、李依はそういうのないの?」
「私?」
「うん、私」
ちょっと考えて、「そういうの」とはなにか、さっきまでの会話から考え直す。結論はそう遠くないうちに出たので、安心した。
死にたくも生きたくもない感情。それを日常生活で意識することなんてまずないし、意識しようとするほうがおかしい。だからひねり出してもひねり出しても、なかなか出てこなかった。
見つかったような見つかっていないような、というものなら、一つだけあった。
「ある…かも」
「でしょ?だから死ぬのが嫌いだなんて言わないで」
香澄は立ち上がり、熊川くんの机に近づく。そこに散らかった鉛筆やら教科書やらを片付け始めた。
「そういう人間はたいてい、死にたがってる。入院した時も、そうだった」
「そういうことを思ってる人間は、ってこと?」
「そ」
ガチャガチャと文具の音が響く部屋は、なんだかクラスメイトのさりげない圧に押された私みたいだと、よくわからない感情になる。熊川くんもそうだったのだろうか。誰かに押されて誰かを押し返せなくて、それはいざという時に足を進める動機となったのだろうか。
私のことも、香澄のことも、真奈のことも、薫のことも、気難しくて体から放出することができない。そう思うとこれから何度も、熊川という名前を目にするたび、色々なことに対して突っかかりを感じて生きていくのだろうか。
二歳くらいの時、初めて親に殴られた。それがなかったら、私は今ごろ普通の女の子だった。それから私の人生は、始まった。
幼稚園で見せた頬の大きな湿布か、絆創膏か、それを見た瞬間に覚えたての言葉で「大丈夫?」と心配してきてくれた男の子が居た。
桜色の名札に書かれた「はしま かおる」のひらがなを、私は見つめていた。あの眼鏡ガリ勉野郎との出会いは、怪我を心配してくれる優しい子という認識から始まっていた。
薫は昔から、頭がいいやつだった。この年で大丈夫をここまで自然に出せるやつはほとんど居ない。エイサイキョウイクとかいうものを、薫はしていたと聞く。言葉を覚え、遊びを繰り返し、誰よりも優しかった。しかし彼が絶対にやらなかった唯一のこと。それが運動だった。「運動にネッチュウしちゃったら、勉強しなくなちゃうでしょ、ってお母さんが」ドッジボールのボールを園庭に返しながら、笑ってそう言った彼の姿が焼き付いている。
中学を卒業するまで、彼はとにかく頭がいいだけの、普通の男の子だった。それまで私はよく、それこそ「ゆとり」集合で遊びに行ってたし、誕生日もお互いに祝ってもらっていた。しかしそのタイミングで、彼は急に冷たくなった。私は知ってる。
「将来の夢は保育士です」純粋無垢で無邪気な小学生時代の彼の声は、まだ私の心臓から離れていなかった。保育士になりたい、という夢を否定するわけじゃない。でも正直、普通の頭の良い小学校低学年の男の子が「保育士になりたい」と言えば、驚く、という人が多いのではないだろうか。そしてその声とセットで、顔をぐっとしかめた彼の両親の顔も私の頭にはインプットされているのだ。
彼は今でも、そんな心優しくて残酷な夢を抱いているのだろうか。それなら彼は、両親に嫌われるだろうな。保育士なんかにしたくないんだろう。英才教育までした自分の息子が、園児の涙と泥で連日汚れるような職につくことが、気に入らないんだろう。
典型的な、子供に対する理想が高い親。うちの親は、これでいいんすか、ってくらい、超低いんだけどなあ、理想。
そういうえば私、進路どうするんだろう。文系に進むのかな、理系でもやってんのかな、それとも_______。心をかきむしるような酷が過ぎる想像が香澄と重なって、泣きたくなる。
「あのおばさんだって、そこまでいい人じゃないんだよ」
「そうなの?」
「大きい声では言えないんだけどね」
香澄が迷惑そうに体を揺らす。
「日々輝に「香澄ちゃん意外と付き合ったら許さない」って言ってたんだってよ」
「え?」
「毒親だよ、息子の恋情を拘束してる。それ以外にも色々、勉強とか友達関係とか追い詰めてたんだって。しかもお気に入りの子には、インターホン無しでも、こんなおもてなしをできてしまう。私はその頭みたいなもん」
香澄の手がぐっと握りしめられる。音が聞こえてきそうだった。手の甲から血管が浮いていた。許せない、そんな苦しい気持ちを汲み取らざるを得なかった。
香澄は呆れた様子で、「こんな私のどこが良いのかね、口悪いし」と一通り片付け終わった机の椅子に座り、ノートを一枚一枚めくりながら語る。
「おもてなしなんかすんな。あんたが殺した熊川を返せ、ってね。そんなこと考えてももうしょうがないんだけどさ」
かなり強い口調だった。それに加えて、「もう」しょうがないというところが気になった。「もう」しょうがないのなら、「しょうがあった」ときは前まであった、と言うことなのだろう。あのときああしていれば…そんな後悔がおばさんも気付かぬうちに香澄を取り巻いているみたいで怖い。香澄が何を思って、誰に向かって何を言っているのか。とてもじゃないが考えたくない。
香澄の今の状況は残酷だ。おばさんのことをどれだけ恨んでいても、香澄はおばさんの恩恵を受け続けるしかないんだ。私自身は当事者でもないのに、香澄の気持ちが恐ろしいほどよく分かる。自分たちが子供という立場であることに、悔しさを抱いた。
ぼんやりとしたライトが浮かんできて、私は口をつむぐ。しかしやはり言わないと、と口走った。
「私は香澄のこと…そんなに悪い人間だと思ってない」
香澄はただ、泣きそうだった。
「そうだね、日々輝にも言われた」
香澄はノートを開いたある二ページを、涙で煌めいた目でじっと見つめていた。耳が自然と感化され、そこで初めて香澄の貧乏ゆすりがやたら大きいことに気づく。今は感覚が過敏になって、逆に良かったかもしれない。家で過敏になると、メンタルがすり減らされるだけだから。
「すげえ、死にたいっていっぱい書いてある」
香澄はホイとそのページを開いたままこちらにそれを投げてきた。
そのページは、数学のノートの終わりの方だった。本題の勉強内容のページは途中で終わっているから、おそらく途中で亡くなったのだろう。
ゾッとした。もともとこういう紙かと錯覚するほど、真っ赤だった。その線の跡や交じった部分を注意深く見ていると、たしかに香澄が言う通り死にたいと何度も連続されていることが分かった。読みづらいことには読みづらいが「タ」と「ヒ」の字に、「に」のはねの部分が、角張った字形のおかげでよく見える。「い」も特徴的で、人目ではわからなくてもなんとなくじっと眺めると、意味がわかってくる。
例えならいっぱいある。美術館にある絵画だったり、数学の応用問題もそう。小学校で習った、「ユニバーサルデザイン」とかいうものの、ちょっと歪な形をした商品。一目ではよくわからないものだけどじっと眺めたり考えたりしていると、その中からじわりと浮かんできて、そこでようやく理解できるもの。別の言い方をすると、そのものの中にある、隠された意図、考えればわかるレベルの暗示。______まあ、こんなものが美術館に飾ってあるのは違うが。
血の真っ赤な色と同じそのボールペンのインクが、熊川くんの角張りのある文字で、清らかな白い紙と青い線が殴り潰されているようだった。こんな調子じゃ、彼は幸せに死ねなかっただろう。とにかく苦痛から逃げたくて、死んだのだろう。ある意味、言葉の暴力、と言えてしまうかもしれない。「人間って結構簡単に死にたくなるよ」とそばで香澄が微笑んだ。その笑みがむしろ恐怖で、サイコパス気質のあふれている。本当に死神に見えてきそうで怖い。
…香澄はこれを、知っていたのだろうか。
暖色の明かりに照らされてすすり泣く香澄…「海の夕焼けに照らされる自殺間近の人間」。そんな淡い表現が私の背筋を冷たく通り過ぎる。私の体の肉を、メンタルを、過去も感情もすべて、根こそぎむしり取っていく。
香澄が「すげえ」と言った真意が分かった気がした。さっきまでの話の流れで言えば、香澄は、死にたい。だから、死にたい人にとって「本当に死んだ人間の」死にたいっていう叫びは、憧れになる。
「カッコいいこと言っていい?」
香澄がまたそう急に聞く。
「良いけど」
「『死にたい人間を生に導けるほど人間は強いが、死にたいときに生という選択肢を見つけられるほど人間は強くない』これ、私の座右の銘」
座右の銘なんて、中学の授業以来聞いたことがない。でもそうやってカッコつけているよりかは、もう普通の言葉を言う余地もないということをお互いに知らしめているようだった。言い換えしてみれば、噛み締める、とでも言うだろうか。
ふいに、一つの疑問が浮かぶ。
「それはいつから座右の銘になったの?」
「え?」
香澄がこんな驚いた顔は、初めて見た。私には今の自分の言葉の何が、驚くことなのかわからなかった。
「だから、いつからその言葉が座右の銘になったの?ってこと」
「いやそれはわかるんだけど…なんでそれ聞くの?」
「だって、それが座右の銘になった瞬間から、香澄は死にたくなった、ってことじゃないか、って」
聞いてはいけないことを聞いてしまった、と思った。青ざめていく顔。冷や汗が伝う顔。どっちもどっちでそんな顔をしていた。
「は…はは……は」
香澄は私が置いたノートを拾い上げ、閉じてブックスタンドに立てかける。そして一言つぶやく。
「…李依っぽい」
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