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『ねえ、私もう少しで死ぬよ』
『そう』
いつからこんなメールが日常茶飯事になったのだろう。
端が抉れた月のそば、スマホに並ぶ文字は眠るように静かなのに、自分にはそれが逆に不快だった。音がない世界といえばそうかもしれない。スマホを打つ機械音だけが心臓の鼓動と重なるように鳴り、部屋はそれと月明かりだけを反射していた。ガタ、とスマホを一瞬落とし、足にぶつかる。痛いとは、思った。
『だから私に尽くして』
『なんでそうなる』
『死ぬからじゃん』
香澄と連絡先を交換してはや一週間が経った。少しずつだけど、ようやく香澄のことがわかってきた。
ネガティブ。それ以外に言いようがない気がする。メールにはそれこそメンヘラのような鬼のような数のメッセージや文は流れてこないものの、「私、死ぬから」という安直な死亡予告をしてくることが多かった。トーク背景の青空に似合わない停滞した短いメールは、毎日のように直列で並ばされていた。
そんなメール画面だったとしても、そこに緊迫した空気感はなかった。お互いが「香澄は死なない」という安心感のもとでメールを続けているからこそ成り立っているのか、それともただ私が香澄は死んでもいいと思っているからなのか。理解不能。
だけど私の中では、「香澄は本当に死ぬかもしれない」という不安感が消せないと同時に、「香澄がそうなら別にいい」という薄気味悪い諦めの感情も少なからず存在していた。メールがめんどくさい、というわけでもない、だからといって香澄がそんなに大事かと言われると、突っかかるものがある。友達って難しいなあと安直な考えを浮かべながら、私は液晶に目を落とすと、香澄からの新規メールが追加されていた。
『死ぬってわかってるだけ良いでしょ』
『そもそも死ぬこと自体だめなんだよ』
『そゆこという人きらーい』
『なんで?』
『それいつか教えるよ』
『明日なら予定はないけど』
『それなら「ゆとり」っていう喫茶店で、明日十時ね』
『え、喫茶店?』
随分とテンポのいい会話の中に、見覚えがある名前が出てくる。
「ゆとり」。幼い頃はよく見聞きした名前だ。記憶をよくまさぐってみると、記憶の中にそれは眠っていた。
田舎の寂れた老舗喫茶店だった。誰と行ったか、なぜ行ったかも覚えていなかったが、その名前は鮮明だった。
忘れた分の記憶を探し求めるみたいに、ネットで検索をかけてみる。レビューには「カフェラテがおいしい」「従業員の対応が良い」という簡潔なものばかりだった。星の色は幼く黄色に塗られていて、それを私に見せびらかしているようだった。
その中に一つ、「パスタ類はかなりまずい。」という低評価の書き出しがあった。ぐいとスマホに顔を近づけて読んでみる。
〈パスタ類はまずい。麺が茹で切ってないし、ソースもまずい。てか馬鹿みたいに量多いし。ちゃんと規定量守って作ってんの?ドリンク類は美味しいのに…勿体無いです。〉
まずい。字は不の味と書いたはずだ。なぜ、「不の味」と感じたのだろう。ある日の友達の言葉が、ぼんやりと浮かんでくる。
「人は見たいものしか見ないって言うから、感じたいものしか感じないっていうのもあると思わない?視覚情報は共有しやすいから「これは見てた」「これは見てなかった」っていう判別がつけやすいでしょ?」
この人にとって感じたいものしか感じなかったのなら、その部分が欠陥しているのかもしれない。このソースの味が好きな人は美味しそうと見て、美味しいと食べ、美味しかったと食べ終え、ただ終わっていくかもしれない。
不の味。まあ、私はパスタはそんなに好きじゃないから食べないげど。別に、食べる理由もないし。
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