腐生の終活〜生きるって難しい!〜

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約束の時間よりも二十分早く来て、メニューをチェックしておく。これが私流の待ち合わせのやり方。 香澄はすぐには来ないと思ったが、私が椅子に座った後、すぐに店に入ってきた。来たのが早いことより、私と同じ考え方をしていることに驚いた。 しかし香澄は私と違い、驚く素振りもなかった。 「早いね」 「これが私の流儀だから」 「ふーん」 香澄は口をとんがらせた。 暖かそうなトレーナーにジーンズ生地のゆったりズボン。黄ばんだ百均の透明ケースに丁寧に収められたスマホを柔く持っている。一際目立ったのは、随分と年季の入った肩掛けバッグだった。剥がれ剥がれになった淡いピンクは遠目ですら色落ちが分かりやすく、買い替えないのかな、と思ってしまう。 香澄は慣れた手つきで呼び出しボタンを押すと、「あっ、ごめん、メニュー決めてなかった?」と今更になって私を気遣った。「大丈夫、もう決めてあるから」と私が言うと、足音が聞こえた。店員は小走りで走ってくる。店員を待つこの数秒にも、かすかに香澄の視線を感じるものの、気にする必要はないだろうと思ってそのまま無視をしておくことにした。 「ご注文、お伺いします」 よしきた、と心で叫ぶ。メニュー表を見た時から決めていた。 「トーストセットのコーヒーで」 単純すぎ、と感じたのか、香澄は一瞬不機嫌な顔をしたが、そのままで瞳だけを上に上げて、 「ナポリタンお願いします」 と言った。 注文を終えたあとで、改めてちゃんと香澄を眺めてみる。手先から、じっと、ゆっくり。 見たくないものは見ないようにしても、感じられるものは全て感じようと思った。香澄を転校生としてではなく、ひとりの新しい友達としてちゃんと見れるのは、今が初めてかもしれなかったから。 手入れされた爪、髪、肌、服。新品のように綺麗な靴。バッグだけがその世界から浮き彫りになったみたいだった。新品の人形に、古い人形の鞄をお下がりで着せる。子供がする着せ替え人形、が一番しっくり来る。でもその思考は、すぐに頭から消した。私には今の自分の言葉が人権侵害にも聞こえる。 自分を咎めるのもここまでにして、香澄に視線を向ける。 「てかナポリタンなの?」 「いつもナポリタン」 「ここのパスタ、評判悪いらしいけど」 その言葉に香澄は怒った。そりゃあ大好きなものを悪く言われれば、誰だって腹が立つよな。香澄は「しょうがないでしょ」とため息交じりに口を小さく動かした。 「その時は店長が違ったの。昨日のソース継ぎ足しとかしてたらしい。腐ったやつとか」 ああそうか、と案外さらっと飲み込んだ真相に、「ちょちょちょ」と首を振る。 「腐ってたのを食べさせてたの!?」 「うん、四年前にバレたらしい。」 あっさりした結末だったけど、毒々しくて生々しい。香澄は続ける。 「なんか近くの店で大規模食中毒が起きたらしくてさ。そこはただの設備不備だったらしいんだけど、うちの県営、すぐ炎上怖がるから対策だけは早いんだよ。それで全ての飲食店に食品衛生調査が入ったときにバレたらしい。」 「それで今は別の人が?」 「そ。そゆこと」 香澄はスマホをサッとポケットから取り出す。随分荒々しい指遣いだが、それは確かに文字ひとつひとつを捉えていた。香澄は躊躇いもなく「食中毒 四年前 死亡事件」という痛々しいワードを検索していた。「ほら」と差し出されたスマホを、手を開いて拒絶する。 「あの、残酷」 「なんで?」 「残酷。被害をそんな簡単に表すの、私は嫌。私の独断になるけど、被害受けた人の気持ちって、単語で簡単に表せないくらいもっと重いと思うんだよ」 香澄は一瞬黙る。まだ幼い沈黙がそこでうごうごしていた。 なにか雰囲気が違う、と感じ取ってしまった。うつむいていた私は何事かと上を向いて、恐る恐る香澄の顔を覗いてみる。その時点でもう、香澄の顔は、血相が違った。 「あんた、そんなんでいいと思ってんの?」 「…?」 「やっぱ季依も、死ぬこと嫌いなんだ」 「そりゃあ…」 「同意するけど、同意しない」 「…は?」 その言葉にキレたのか、香澄は机をバンと叩いて立ち上がる。 「あのね、死ぬって人間にとって一番近いところにある言葉なの。でも残酷だから遠くなきゃいけない。近づけたのは人間自身なんだよ。好き勝手人のこと追い詰めて、乱暴に玩具みたいに扱ってる。でも人間は乱暴に扱ってもすぐには壊れない玩具なんかとは違う。人間は玩具を形成してるプラスチックなんかよりずっと脆い」 周りの湿ったい視線は肌にこびりつく。それは香澄の言葉より重いように感じてしまう。出会って数ヶ月の人間にこんな怒られたのは初めてだった。こういうのってもっと、関係構築が進んだカップルとかであるやつじゃないの? 「ちょっと香澄、周囲の視線が痛いから」 焦る私のその言葉は届かず、香澄の嘆きに遮られた。 「昨日のメールだってそう。皆損得に依存して勝手に人を追い詰めて易易と死に向かわせるくせに、死っていう言葉を直に出すと否定する。だからこそもう死にまーすって言えば良い。死への圧力に耐えるんじゃなくて、あえて全肯定してやるんだ。壁を作るよりクッションを作る。それでいいと思わない?ねぇ、李依」 その響きは偶然であってほしかった。「ねえ、李依」私のことを急に自覚されられると、こうも恐怖は増大するものなのか。単純なる恐怖だった。今私は香澄に、自分がこれまでしてきた苦痛への抵抗を否定されているのではないか。それは私に涙を押し寄せる。 しかしもっとはっきりした香澄の涙目は私の顔にズンズンと近付いてくる。 「私達は皆醜い人間だから、誰かに侵食されて、腐って生きていくしかないんだよ。死を一番近い場所に置きながら腐って生きる。腐生って言葉があるの。生き物が、他の生き物の死体や排泄物などを栄養源として生活すること。人間みたいじゃない?誰かを攻撃して生きることをやめられないのは、そうしないと生きていけないからでしょ?そうしないと死ぬんでしょ?精神が壊れるんでしょ?誰かの死とか痛みに縋って生きてるから、結局人間は死ぬことから抜けられないわけ。腐生の一番の例じゃない。腐るだなんて、あのクソ店長が作ったナポリタンみたいだし。あんなものに縋ってた私が馬鹿だった」 「ちょ、香澄…」 「てかそもそも死ぬことが悪いことだと思わないで。こういうセリフ知ってる?『死ぬことが嫌いだから自分からは死ににいかないっていうわけじゃないと思うんです』って。これ、あるアーティストさんの言葉でね________」 「わかった。わかったよ、香澄。」 「わかったって何。わからせたいから言ってんじゃん」 「それはそうだけど」 そう納得したように言うしか、香澄はわかってくれないと思った。 「ごめん、言いたいことがあるのはよくわかったよ。でもね、とりあえず顔がバカみたいに近いのと、周りの視線が痛いのと、あとだいぶ話が逸れてきてるのと、ナポリタン冷めちゃう」 ナポリタン。その言葉に静まる香澄を見て、一つだけわかったことがある。ナポリタンが大好物。それだけ。なんとか絞り出したいっぱいの理由は、香澄の心に刺さってくれたようだった。…刺さると言うか、跳ね返ると言うか…。 タイミングを見計らっていた隣の店員が今だと思ったのか、 「すみません、他のお客様の御迷惑になりますので…」 と頼りなさそうに言った。その瞬間私は視線を感じた。香澄ではなく、その店員のものだった。「ありがとう」という感謝も、「もっと早く止めてくれ」という悲痛さも滲み見えている。傷んだのは店員でも私でも香澄でも周囲の客でもない。そこの空気、それだけだという結論が出た。 「…ごめん、ちょっと出てくる」 香澄はその場を逃げた。事の重大さには気付いていない様子だったが、それはこういうことが何度もあったからなのではないか、という推測に行き着いた。こんな性格の香澄なら、そうなのだろうなという空想が勝手に浮かぶ。これは侮辱に値してしまうだろうか。 香澄が残したままの、あとほんの数口分のナポリタン。フォークの跡、ソースがお皿からはみ出たところ、真っ白の洗いたてのシャツみたいなきれいな部分…。そのすべてが生々しかった。香澄の話した「死ぬ」こととは裏腹に、そのお皿からは香澄が「先程まで生きていた証」が垣間見えた。トマトの色は赤色。それは生きていることの証明にもなる、血の毒々しさまで表現されているようだった。私にはこの残されたナポリタンが、香澄が作り上げた一つの芸術作品に思えた。この直前まで人が居たんだ、その瞬間はただの日常の一部でなんの気にも止められないけど、いざその人が消えると愛着が湧いてしまう。なんたっけ、いぶつ、とか言ったかな。「香澄が生きた証」____。自分の中ではそんな題名がつく。 ふと思う。香澄はいつ死ぬのだろう。「もうすぐ」なことは知っていても、それが具体的にどのくらいの期間なのかは聞いてないと、何故か今になって認識する。「もうすぐ」の感じ方には個人差がある。私なら一、二ヶ月までといったところだが、香澄はどのくらいなのだろう。 香澄に「死ぬな、生きてくれ」と願う気持ちは一切なかった。その苦しさを簡単に語ることは、香澄にとっても私自身にとっても辛いだろうし。だけど「香澄が本当に死ぬ前の今」として、「香澄が生きた証」だなんてまるで死ぬことが確定しているような言葉、出して良いのだろうか。そもそも、「生きる」という言葉は、「死ぬ」という言葉があるうえで成り立っているのだから。 でもどうだろう。生きているし、これからも生きるというときに「生きた証」。それもおかしくはないと感じざるを得ない。 私は生きたんだ。そういう事実がある。それだけでまた生きようと思わせることはできないのだろうか。香澄みたいに死ぬことを決めた人間と、なにを分かち合えば良いのだろう。 死ぬのは止めない。だからこそ、どうしたら良いかわからない。死ぬのを止めるっていう目標とか目的もなければ、だからこそ安心ができる状態じゃないから、なにかしていないと安心できない。目頭がぎゅっと熱くなる。感じたくないものを、感じてしまった感があった。 数分後に香澄は帰ってきた。ナポリタンはまだ若干の温もりは保っているだろう。でもパスタは、冷めると美味しくないから、急いで食べたほうが良い。 香澄は「はあ」と自分のせいじゃないと言うように、一つ大きなため息を流れさせた。そのままの流れで、「とにかく」と言葉を続けた。アンティークな椅子に座った香澄が、何事もなかったかのようにスマホをしまう。 「今まで私達はみんな腐って生きてきて、腐ったまま死んでいった。でも私は違う。終活くらい、生ものに生き返って死んでやるんだ。だから季依、よろしくね」 「就活?」 香澄は眉を少ししかめる。掴みどころのない顔をしていた。 「今どの漢字で思い浮かべた?」 「…仕事の方」 「でしょうね」 香澄はふんと鼻息を立てた。ふざけんな、というよりは、わかってないなあ、という感じだろうか。 「そんな安泰な方のしゅうかつ思い浮かべてたら、いざそうなった時に大変だよ?」 「知らんがな」 またあんなことになるのではと思いパシッと会話を切ったが、香澄は納得してないようだった。 コップに半分まで入った水をくるくるさせながら、頬杖をついて私に視線を向ける。コップに弱いライトの光が反射して、水と一緒に揺らいだ。 「終わる方。そう言ったらわかる?」 思い出したのは、祖父が亡くなる前の母の言葉だった。「おじいちゃんはちゃんと終活してるから助かる」って、父と話していた。そのわずか一月後、祖父は微笑みながら天に登っていった。 「…うん」 「そ。私もうすぐ死ぬから。だから今終活中。よろしく」 香澄はそのまま静かに上目遣いをする。「よろしく」では済まされないレベルの話が急に頭に流れ込んできたからだろうか、急に食べるスピードが上がる。 よく考えてみる。今目の前にいる人が、もうすぐ祖父と同じ運命を辿るんだ。人間はいつ死ぬかわからない。限りなく低いけど、明日死ぬかもしれないっていう確率は必ず存在する。なのに誰もが目の前で普通に生活してる人が、近いうちに死ぬなんて考えない。だからみんな誰かが死んだ時、信じられないって顔する。でもそれを、当たり前のように見届けていく。矛盾はするけど、自然の摂理ってこういうものだ。 私の中では早めに食べ切ったつもりだったが、香澄はとっくのとうに終わっていたようだ。デザートは食べたいかと食い気味に聞かれたが、そんなに長くこの店にいられる気はしなくて、その本心を見せないように柔く断った。 「あれ、香澄、その痣何?」 「昔いじめられてたときの傷」 「…うん」 返事はうん、でいいみたいだった。 口が落ち着いたところで、気になっていたことを聞いてみる。 「ねえ香澄。終活ってどんなことするの?」 「知らんがな」 とんでもない手のひら返しを食らった。でもそれは単なる悪戯だったようで、ニヤリと口角を上げると水を一口飲んだ。私は足を組み替える。 「本当は死後の話するんだって。だいたいお墓とか葬式とかその辺のこと考えるらしい。けど私はそんな感じじゃない」 香澄がコップをコトリと置く。 「私、死ぬまでにやりたいことあるから、それをやるの」 「バンジージャンプとか?」 「やりたいとも思わない。高所恐怖症。」 「あっ、ごめん」 「でもまあ、「死後のことを考えてやる作業」ってとこには変化ないからね。そろそろ行こ」 香澄は立つ。私もそれにつられて体が反応する。作業、という表現に一瞬喉の空気が詰まったものの、これが香澄なんだなあと無理なことを思って、うまいこと飲み込むことにした。 私は香澄が外に出ている間に数えておいた小銭と千円札を出した。 「香澄、これ私の分。お釣りピッタリ五百円だと思う。千円札しか無くてごめん」 そう言うと香澄は笑った。また何か悪戯でもしたのだろうか。 「ごめん、私も今千円札しかないから」 私の手にそっと千円札置いた香澄は、なんだか自慢げだった。 小銭入れのチャックが開きっぱなしの財布の中を覗き込んでみると、そこにはひときわ大きな小銭が一つあった。五百円玉だった。これは他意ありか、他意無しか、判別が難しい。 「季依、あと行きたいとこない?」 「ないよ」 「へえ。じゃあまた」 「またね」 お店を出て話したことは、それだけだった。別に話したいことも、特にはなかったのだけど。
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