腐生の終活〜生きるって難しい!〜

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「ただいま」 その声が届くことはなく、代わりに犬同士の喧嘩みたいな大声がリビングに飛び散っていた。叫び声や悲鳴というよりは、個々がお互いを意識せずに奇声を上げているような、私にはそんなふうにも見える。その騒音は、ただ根こそぎに私の精神と集中を持っていく。感じたくないものなのに、感じざるを得なかった。あいつの言うことは、間違いだったのだろうか。 暗いキッチン、テレビ、中古品のソファ、四人がギリギリ入る広さのテーブルに壊れかけた椅子。物の少ないリビングだ。その代わり、音量はバカみたいに大きい。 ソファでスマホを見つめる姉は私に見向きもしなかった。後ろを通るだけのふりをして、スマホのページをこっそり見てみると、推しアイドルのツイートを一つ一つスクリーンショットしたものを、行き来していた。まるでその一文字一文字を舐め回すかのようなうっとりした姉の目が、気持ち悪い。これ以上は見ていられないと思って、私は手洗いをするようなしぐさをしながら姉のそばから離れた。 キッチンのシンクの石鹸を粗くこすり取り、水につけて泡立てる。泡だらけの手に水をかけ泡を落とす。手首に残った泡は見て見ぬふりをした。濡れたままの手で自分の部屋に戻ろうとする。 「あんたのせいで日和はこんなふうになったんじゃない」 私の前に急に現れた巨人が、私を睨みつけた。 「は?」 「なに涼しい顔してるの」 涼しい顔をしてるわけじゃないんだけどな。つばが洗ったばかりの手にポツリとついて、それをバレないように毛玉だらけの洋服で拭き取った。 「日和はさ、なんでこうなったと思う?」 日和ってなんだっけ、ああそうだ、私の姉。長い事名前で読んでないから忘れちゃったあ。なんでこうなったかかあ、うーん…。 「育てたのがあんたらだから」 それしか思いつかなかったのも不運だった。いつもはもっと語彙があって、まともな回答ができるんだけど。 ああ、これは叩かれたな。それは一瞬でわかった。頬が熱かった。私の中の感覚を確かめても、周りの様子を見てみてもそうだった。親から子にビンタって、当たり前じゃないんだってあいつは言っていたけど、私の親は息をするようにやるからなあ。こういうときたいてい、父はそれをいい気になって見てる。 おそらく姉の要望だろう、暖房がガンガンに効いていた。母の荒い呼吸と父の痛い視線と、姉のスマホの入力音は重なり、私に偽の正義を振りかざす不協和音となった。ただいまで、おかえりと返すだけの日々ってなんだろう。それは綺麗な和音として、私の「ただいま」に重なってくれるだろうか。 _____いや、無理だな。てか私そもそも、ちゃんとただいまって奏でたっけな。記憶がまばらすぎる。一回のビンタで四割は飛ぶから。でも案外ちゃんと、香澄といた「ゆとり」のことは、きちんと覚えている。忘れたい記憶ほど、忘れてくれないってこういうこと。 「日和のこと、一回精神科に連れていきなよ」 「あんた、お姉ちゃんが薬漬けにされていいっていうの?」 「それ以前にスマホ漬けでしょ。そんなんだったら薬のほうがまだマシだと思わない?」 母ははぁとため息を漏らす。 「あんた、やっぱりお父さんに似てるのね」 「おい、それはどういうことだ」 また二人の世界での喧嘩が始まる。あーあ、話がそれるからいつまで経っても「話」が終わらないんでしょ。呆れる。ほんとに呆れる。苦しいから強がってるんじゃなくて、くだらなさ過ぎて諦めた、ってこと。諦めた以上、まともに受け入れて相手するのは余計めんどくさい。相手の人格をひん曲げてやって、相手にわからせるんだ。 でもわかってる。うちの親がそんな十六歳の娘の反抗で、簡単に折れるものじゃないってことも、別に愛していない次女の言葉なんて真面目に聞いているわけがないことも。 姉のことだって、溺愛だなんてか弱い絆なんだ。喋らない絆は本物じゃないことを、親は私より早く深く学んできたはずなのに。腐った親子の絆だ。強く愛す。そして間違えないように、持続して愛して導いてあげる。それも、正統派の正しい方法で。それはそこまで、難しいことなのだろうか。 「そういやさ」と姉がいきなり口を挟む。普段は喋らないくせに、と文句が垂れる。しかし姉の話に釘付けの両親には、私の言葉にだなんて耳を持っていなかった。 「あんたなんか「ゆとり」で騒いでなかった?」 まさかの情報流出に体が固まる。親は私の弱みを握ったように、「あんた、店の人に迷惑じゃない」と嬉しそうに怒鳴ったが、 「違う違う、なんか女の子と一緒に居たじゃん。マッシュヘアーっぽい、ショートヘア。男の子みたいだったって」 の一息で口を詰めた。 気まずい、とその場の三人が思っているだろう。しかし姉は空気を読もうともせず「友達があんたの妹居たよって教えてくれた」と付け加えた。それでも、私の疑いが晴れたところは感謝する。 姉はどっちの味方でもないんだ。親に味方されて散々庇われているのも知らず、私に敵視されているのも知らず、「自分はめんどくさいからどっちでもない」という立場で良いように親を利用する。味方にも敵にもつかない。その立場がこんなにも卑劣だと思ったことはなかった。 親はそのうちひとつの結論を出したかのように、厳しい口調でこんな言葉をなすりつけた。 「あんた、訳解んないけど、その子と友達辞めな。そんな子と関わるべきじゃない」 あんたが言うな。そう小さくボソリと口に出すと、また頬が熱くなった。 親のくだらない喧嘩を横にして、こっそり暑いリビングを抜ける。リビングは慣れというものなのか物が少ないほうが居心地がいいが、自分の部屋は散らかっている方が安心する。ものに埋もれれば埋もれるほど、自分を一つの人間と認識しなくて済む。そんな気がするのだ。 そこらに落ちた使い切った数学のノートやらずっと捨てられないぬいぐるみやらを拾い上げ、隅の方に寄せる。小さな丸テーブルに飲み残った水筒を置いたあとで、クッションをベッドから一つ拾い取った。カーテンを閉める時、レースカーテンの隙間から見えた夜空と街並み。帰宅時より更に激しく雪が降っていた。 私はポケットをまさぐって、スマホを出した。香澄からのメールを確認する。未読一件。そこには香澄らしくない、丁重な文が並んでいた。 『電話できる時、かけてもらえたらありがたい』 「ありがたい」。そんな大人じみた言葉は久しぶりに見た。人に感謝を要求する姿。なんだかどうも香澄と重ならない。想像ができない。香澄の辞書にどんな言葉が載っているか、をぼんやり想像する。「バカ」、「乱暴」、「醜い」、で、「ありがたい」…。何を見て学んだらこんなことになるんだよ。 自分でも驚くことに音声通話ボタンは、ためらいなく押せたけれど。 「もしもし、香澄」 「李依、ごめんね、今日あんなことになっちゃって」 申し訳無さそうで謝意も感じられる声だったが、自分の思考は間違いないという思いがありそうに聞こえた。「あんなこと」は周囲の視線とか自分の大声とかそういうものであって、「あんなことを言ってごめん」「あんな考え方しててごめん」的な話ではないのだと思う。 「うん、別に気にしてないよ」 「なら良かった」 どうやら話したかったことはそれだけのようで、軽くおやすみを交わすと電話は切れた。短い。時間を後で確認しても、ほんと短い。 私はスマホの下側を口に近づけて体育座りをしたまま、鋭い沈黙とぬいぐるみたちに沈んだ。敏感になっているのか、フローリングの冷たさを余計感じる。まだこの電話のあっさりさに体がついていけてない。二十秒足らずの電話でこんな意味のある会話したの初めて。香澄の性格上か、それとも気まずいのか。香澄にとってこの二十秒は、どう映っただろう。 あまりにも短い通話時間なのに、それと比べ物にならないほど、長い余韻。夜はやっぱり、寒い。
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