腐生の終活〜生きるって難しい!〜

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それは、中学三年生の始業式の日だった。職員室の傍を通ったところで偶然担任が現れ、「あ、ちょうどいいや。ごめん、真奈さんの家近かったよね?」と聞かれたのだ。確かに、帰り道からちょっと逸れるだけだった。「ごめんごめん、明日からは先生が行くから。今日は職員会議があって」と笑っていた日。しかしその直後、「始業式はどうにか来てほしいと思って電話かけたんだけど、大泣きしながら断られちゃったよ」、と意味深に苦笑いしていた日でもある。初めて見た、いつもフレンドリーだったはずの担任の困り顔は、とにかく印象深い。 帰路を逸れた道の先で二分くらい歩く。そこにあった白壁の開いたドアの向こうには、スッキリとした顔立ちの細身の少年が立っていた。 「受験生として大変だけど、最後の一年を楽しもう」と三年生進級を高らかに語る学年通信。自己紹介の時間やクラス委員や目標を決める時間の説明が事細かに書かれた、今週の授業予定。「春休みでみんな前の学習忘れたでしょ」と配られた数学専科のオリジナルの復習小テスト課題。キラキラと輝く学校生活を表しているプリントの数々は、手汗の滲む私の手に強く握られていた。怖かったのだ。学校も受験も楽しめないし、今年のクラスメンバーや担当教師はおろか、去年のクラスメンバーですら知らないし、春休み前の授業もその前の授業も何一つ知らない人。そういう人が、目の前にいる。もしここで自殺なんかしだしたらどうしよう、怒られたらどうしよう、と思っていたからだ。これらの配布物は今真奈には、どう見えているだろうか。 「これ、先生から、プリント」 怯えながらそれらを渡すと、真奈は緩んだ目で一枚ずつ適当に眺めながらめくり、靴箱の上に雑にぽんと置いた。少し安堵した私の顔を見て、真奈もゆっくりと微笑してくれた。真奈は外の方に目をやった。真奈の瞳がツヤっと光った気がした、その時だった。 真奈はいきなり、 「桜見たい!」 と笑顔で言った。私はその瞬間ではうまく理解できなかった。 桜。確かに咲いてるけど。ちょうど散りはじめだ。満開から少しずれた今が一番綺麗、担任の言っていた言葉が不思議と思い出された。そんな頃合いの日だった。花びらが浮いて舞う、その景色は青春と同じ清々しい青に重なって輝いていた。 真奈は躊躇いもなく、まだツヤツヤなローファーを裸足のままで履いた。春風が吹き桜が散りゆく、それが真奈の周りを踊るように舞う。自然の多い河川敷近くのコンクリートの道。整っていて綺麗な街。それをバックにしながら、彼女は幼稚園児のようにキャッキャとはしゃいだ。 綺麗だと思った。心は男子でも、顔立ちは女子の私が見とれるほど、とにかく可愛らしかった。私よりも綺麗だと感じた。男子に顔を似せるようにメイクをしていても、やっぱり女子として産まれたことを全ては隠しきれない。残酷だけど、その歪さがまた素敵だ。 今までとは違う人生を歩もうとしているひとりの人間。今までとは「別人」になる途中の段階。その瞬間を今私は目にしているのだと思うと、急に胸が熱くなった。日光を遮るブレザーもネクタイもベストも、何もかも全てここに投げ捨てて、スカートとシャツの姿だけで生きてみたいと思った。周りが暗黒でも構わない。夜に家出をしようとしたときの感覚そのものだった。 雲に覆われる月と一等星がふたつ、私はコンクリートの道の先を眺めていた。ここに誰か居てくれたら、一緒に苦痛なんかから抜け出して夜を謳歌できたなら。「家を出たその夜は僕が生きるために必要な一つのステージであり、居場所であり、中間地点だ。」、佐野健先生著の、「ストラップ」の小説のワンフレーズ。そんなこと親は認めてくれないよ、と読んだときは家でなんて半ば諦めていた。それでも、私は仲間がいれば家出なんて軽々とできた。何もかも置き去りで、私を進みたい。主人公と私の境遇は違えど、この言葉にはどこまでも共感してしまう。 風に仰ぐ桜に幸せそうに打たれる真奈は、いつになく笑顔だった。首元のゴムが伸び切った黒いルームウェアと横縞グレーのパジャマズボン。切らずに伸び切った後ろの髪の毛は、遠目で見ると本当に女子にも見えてくる。 「髪切らないの?」 と聞いてみれば、 「そろそろ切るよ」 と当たり障りない返答が返ってくる。これこそ真奈っぽい。 私は真奈のどこに焦点を当てて話せばいいか、わからなかった。彼女は髪をくしゃっと触ると、「僕実はねー」とふわりと体を揺らしながら、笑顔で私にこう告げた。 「丸刈りにするの。髪切るときは、毎回」 「え?」 「切るの面倒だから。丸刈りにすればあと一年くらい切らずに済む」 「でも…それ見られたら恥ずかしくないの?」 「ううん」とゆるく笑い、ポケットに手を突っ込んで、「出かけないから」と泣くように語った。「学校以外でも」、「世界って楽しくないしさあ」、「私とどっか行く?」、「君の負担にはなりたくないよ」________。 言い訳でも我儘でも、はてまた我慢でもないと、すぐに理解できた。本心なんだ、と喜べない私の感情とは対象的に、彼の口調は暖かく、周囲の空気を優しく包み込んでいた。声は不格好に低くしていても、女の子特有の雰囲気が抜けていないのが、なんだかとても悲しかった。 「痛った…」 彼に渡す次の言葉を考えている最中だった。彼女は毎日部屋から出ずに、ほとんど歩いていないのだ。少ない筋力、慣れないローファーと硬くてボコボコしたコンクリートにより、彼女は転び道路に尻もちをついていた。 真奈の母親に診てもらうと、足をくじいたのかもね、とのことだった。私は怒られるかなと怯えていたが、「一緒に外に行って遊んでくれただけ、嬉しいから」と私に一本オレンジジュースをもたせた。遊びじゃないし、むしろ感謝だということにこれで良いのかと自分を問い詰めるほどだった。私がもっとちゃんと見ていれば、真奈は怪我しなかったし転ばなかったはずだ、と私は私で自分を責めた。 真奈の足にはいつのまにか包帯が巻かれていた。「今度病院行くよ、安心してね」と私に笑いかける母親を見て、「えー、病院?めんどくさい」とブーイングを出す真奈。それもまた、本心だった。真奈の家は皆、正直で素直だった。 今もそうであってほしい、と淡い気持ちを持ったところで、彼女が私の誘いに賛成するかもわからない。トランスジェンダー、不登校をたどって、中学時代は一年の三学期からは片手で数えられるほどしか登校しなかった彼女には、きっと私はとんでもない健常者かつ、異常者に見えるのだ。それにどう対応して反応しよう。 数ヶ月前にやった、英語スピーチテストみたいな緊張感。審査員は純粋で優しい友達なのに、こうして意識すると、私が「友達」という型に真奈を当てはめることも怪しくなってくる。 真奈から返信が来たのは、寝る前だった。 『香澄って子の友達なんだって?薫から聞いた』 『あいつ、おしゃべりだね』 『悪いことは言わない。あの子と関わると駄目だ』 「…?」 香澄はそんなに嫌われ者なのか。ここまで来ると異常だと本能が喚く。姉とあいつの場合は、実際に目撃されているから納得がいった。そりゃあ喫茶店で急に死ぬことについて騒ぐ人がいれば、そんな人とは関わりたくないと思うことは普通だ。しかし、連絡先はさほど持たず、おまけに家も出ていなさそうな真奈が、なぜ。ピロン、とメッセージ受信音が鳴る。私は慌てて消音モードに変更したあとで、その文字を一つ一つ眺めた。 『あの子転校してったんだけど、その前から色々やばかった』 『どういうこと?』 『十一月くらいに転校してったんだよ、その子』 『それで、私の高校に居る』 『あ、そうなの?』 『うん、そう』 『うちの学校で一年生の時にいじめられてたんだよ、あの子は』 『いじめ?』 『それで、転校前に入院してる』 『どこに?』 『この感じなら、精神科でしょ』 文字を読むたびに心臓の鼓動と息切れが激しくなり、冷や汗は乾かずにベッドに滑り落ちた。一通一通の重みが、他の人の時とまるで違う。 枕にさらに顔を沈め、スマホを打つ手を早める。真奈に今どうしているか聞こうと思っていたこともすっかり忘れ、とにかく頭は過去の香澄のことでいっぱいだった。 『やばいって、それが?』 『退院したあと転校するまで私達は皆腐ってるーって喚き散らすようになった。私は死ぬときまで一人だ、生きる事を楽に考えるな、ってさ。そんな奴と関わってたら、こっちまでおかしくなる気がしない?やばいでしょ』 『その前は?』 『普通の女の子。友達ともよく遊びに行ってたし。パスタ大好きなんだって』 『…香澄に、何があったの?』 『さあね。でも僕は彼女が嫌なだけで、君が嫌なわけじゃないから。だとしても香澄と絶縁するまで、僕は君には会いたくないな』
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